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あおひと君ブログ::2011年が終わる〜
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    • Contemporary Art 2.012展
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  • 2011年が終わる〜
    2011年が終わる〜!

    震災および福一で被災された皆様にはあらためて心よりお見舞い申し上げます。

    正直言って今年は原発は言わずもがな311のトラウマに悩まされ続けた一年だった。

    来年2012年は少しはマシになってと心底、願う!

    でもスウェーデンでの個展では北欧の空気、アートな環境、人々の温かさなど、あらためて接することが出来、とてもいい経験ができた。

    来年秋には3年前にグループ展で呼んでくれたブダペストのオペラギャラリーで個展予定。それとセルビアとの国際交流展が決まっている。他にも壁画制作、企画中プロジェクトも多数あるので、どうなるか楽しみだ。

    とにかく座右の銘ではないが、我が道を信じていけば、自ずと道は開ける!しかしそうは言っても、相変わらず生活苦は続いているから、来年は何とかしないと!!!!

    ところで、最近、言葉の意味とか言葉の機能性とかコミュニケーションの不調和というのか言葉の一人歩き的な雰囲気が気になって仕方ない。

    それはインターネットという新しいコミュニケーション手段に起因することは明白だ。

    たぶん1990年頃だっただろうか、ウエッブをやり始めて受けたショックがいまだ鮮明に脳裏に浮かぶ。

    他人の日記が読める?!すごいショックを受けた。なんかとっても新鮮な気持ちだった。

    それが今ではパブリックがすべて個人の日記みたいになってしまって驚いている。天地無用な法則がひっくり返ってしまった。そういう自分も日記みたいな私的感想をブログで披露しているのだから。

    リチャード・ローティというアメリカの哲学者が、人間の文化は物語なしには成り立たない、と言う。

    というと東浩紀は、ポストモダンとはもはや大きな物語が価値喪失した時代である、と言う。

    ネットのブログでもスレッドでもコメントでも議論を期待しながら、それが成り立たないこともうすうす感じている。それでも発信者は満足なのだ。(自分のことか?!)

    コミュニケーションとは相互理解みたいな理想を宿しているけど、もはや相互理解といいながら、各人の発する言葉の意味や説明が、おのおの一致していないこともわかってきた。

    それも大きな物語の喪失が関係しているのだろう。

    チャットを経験した人なら如実に感じるはずだ。チャットは話している疑似体験みたいな状況だから、相手の言葉に振り回される。文章を読むのとは違って、生々しく言葉に感情移入しやすい。すると相手の言葉の真意を読むことがとても難しくなるのだ。

    だから齟齬が生じたら文字を打ち込むことが面倒になって思考も追いつかなくなって、後ろめたさを保ちながら無視するか、ラインを切るしかない。

    チャットに限らずポストモダンなコミュニケーションはそんな状況ではないだろうか?

    言葉の地位喪失と機能性の欠如、つまり言葉を処理するスピードが押し寄せてくる情報量に間に合わない、コミュニケーションの進度に追いつかない。

    飛躍するけど、だから現代美術に人が集まりだしているのではないだろうか?

    80年代、自分が発表をし始めた頃は、現代美術なんて新興宗教家みたいに胡散臭くて(今でも変わらないけど)、観客なんてほんとうに少なかった。まして作品が売れるなんて驚天動地。

    ここでちょっと話がずれるけど今の心情によると、新興宗教かみたいに胡散臭い、とすんなり表現できない自分がいるのだ。これは昔ではあり得なかった。

    つまり新興宗教といっても、胡散臭くないのもあるかもしれない、という疑問や反論も予想してしまう。一応、ブログで不特定多数に公開する以上、言い訳(エクスキューズ)も考えてしまう思考回路になっているのだ。

    これがネット社会に組み込まれてしまった自分、洗脳されたのかはわからないが、絶対的価値観の喪失につながっている。またこれを断言できないあいまいな自分もいるデフレスパイラル。

    で、、、、話がずれたけど、昔は一人考え事をしたり、静かにアートを鑑賞したいときなど、近代美術館や都美館の企画展示を見に行けば、大きな部屋でのんびり過ごすことが出来た。

    ところが今ではありえない。ちょっと大きな展覧会に行けば普通の日のみんなが一生懸命、働いているときでもかなりの人盛りだし、銀座のはずれのギャラリーに行っても少しいれば誰かがやってくる。それに併せて作品も売れるようになったことは実に驚きだし、それはそれでとってもうれしい。

    観客動員数だけで見れば、日本は世界一だそうだ。ただしササビーなど公になっている現代美術の販売総額は韓国やトルコよりも低い。

    とにかく人間は何かにすがりたいし、存在の意味を知りたがるのだ。よく鏡という表現を使うけど常に自分を映す鏡がないとちゃんと立っていられない。それが社会性で生きてきた人類という生物なのだろう。

    特に現在ではポストモダンな絶対的価値観がなくなった以上、自分でそれを作り出すしかないのだ。

    現代美術はそんな不可視な世界を読み取り、少しはこんがらがった現実を整理して安心させてあげる役目はあると信じている。

    常に行き詰まってはいる現実だろうけど、こんな行き詰まった世界に少しでも希望を見いだす道筋を示す、仕事だとも思っている。

    ここでローティの言う物語に戻ると、大きな物語ではなくて、あいまいさが全体を包んでいるほんわかした真実。これからはそんなふうに思想に物語を使わないと、ガチガチに見えないルールに縛られた現状を、するりと抜けて逃げられないということと理解している。

    空気感で感覚的に総合判断するコミュニケーション社会。言葉による意思疎通は角がたって疲れて仕方ないし処理する情報量が増えすぎた。

    空気が読めない、と以前、流行ったけど、それが現実なんだろう、言葉だけではリズムが遅すぎて間ぬけ、ということなのだろう。

    というような分析や解説でしたり顔の自分、分析や解説などで納得することにオーガズムを得る年代?もしくはそういう種類の人間はもはや過去の行動形式人種なんだとも思う。

    それは大きな物語が存在していた西洋哲学の影響のもと、文化人なり知識人なりの真理の探究者が人間の発展に寄与するのだ、という優越感を盲信しそれに感化され、自己満足しているに過ぎないのかもしれない。

    現在の我々(人類)もしくは社会はもっと違う切り口、無数の小さな物語で進んでいる。今の時代はそれぞれの小さな物語集団が独自に成り立っている。人口が多いのでその小さな物語サークル内だけでも十分、自立できるのだ。だからあえて、各々が友好関係を築くように接近したり情報交換するように外交的である必要もない。

    その結果、マスコミからドカ〜ンっと新しい文化が生まれることもなくなった。ある意味健全なのかも知れない。
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