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あおひと君ブログ::現代美術と文脈
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    • Contemporary Art 2.012展
      記事掲載
















  • 現代美術と文脈
    AKB48が絵画展を構想中とネットニュースに流れていた。盛り上がりそうだ。若い人たちを含め、アートにもっと興味を持ってくれれば、それに越したことはない。あえてそれがアートとか芸術とか、それに対してアーだ、コーだぁって言っても意味は無い。

    と言っても「アート」や「芸術」。本当のところ、これって何なのだ?自分もこんなやっかいなヤツに出会わなければ、もっと幸せな人生を送りことが出来たはずだったのに〜。

    今はあまり聞かなくなったが、若い頃、絵を描いています、と言うと、
    「抽象画ですか?(間が空く)・・・現代美術は難しくてねぇ、、、」
    あいさつがわりだった。そして「はい、さようなら」という意味もかねていた。

    最近は現代美術もなんとな〜く定着してきた感はあるが、まだまだ音楽や小説にくらべると認知度はかなり低いことは否めない。

    それでも東京にはギャラリーがたくさんある。都現代美術館や国際新美術館みたいな立派な施設も多く、国内外の有名なアーティストの展覧会もたくさんやっている。そこでは一切合切をアート、芸術、美術などの言葉でくくり、古典絵画、工芸品、書道、手芸、日本画、彫刻、絵画、インスタレーション、マルチメディア、写真、映像、パフォーマンス、アニメ、イラストなどなど一糸入り乱れ百花繚乱、すごい文化大国だ。

    自分のやっていることはその中の現代美術。でも最近、この言葉がしっくりこない。ひねくれモンでなまけモンでホルモンだからあまり気にならなかったが、哲学かぶれとヨーロッパで現代アートに対する解釈の仕方をいろいろ体験したためか、日本語の「現代美術」にとても違和感を感じているのだ。

    美は英語で、Beautyやgrace。すると日本でいう美術とはBeauty techniqueだ。業や術はArtという以外にtrick(トリック)とも言うからBeauty trickではないか、まるでお化粧みたい。

    芸+術はArt art、 art trick、Performance techniqueとも訳せる。逆に言うと日本語の芸術や美術のシニフィエ(意味されるもの)は一切合切の人工的もしくは技術的表現物と捉えて正しいとも言える。結果、今までにない卓越した技術で描かれた絵が驚きでもって迎えられ、緻密な螺鈿細工がこれこそ芸術だ!となるわけだ。それは世界一速く100メートルを走った選手が金メダルをとるのに似ている。

    また美術とは、明治時代に西周(にしあまね)という人がファイン・アートから訳語した言葉だ。彼は他にも哲学とか理性、科学、技術などの訳語も作った偉い人なのである。でも日本語は中国語の表語文字のような固有のイメージを持つ漢字に訳してしまうと意味が変わってきてしまう。もちろんその訳語がつけられた当時は日本も開国して間もないし、それを検証できるような状況ではないから、現在まで無批判に使われてきたのだ。

    ちなみに英語のArt、ドイツ語のKunst(クンスト)は、人工的な、技術という意味の古代ギリシャ語のTεχνη(テクゥネー)をラテン語訳したarsから作られた単語で、ファイン・アートは純粋な人工物もしくは技術という意味が強い。

    例えば美学が、aestheticsと言うようにBeautylogyでは決してない。美容エステという和製語で有名なエステチックの原語は古代ギリシャ語の「感性」「感性学」の意味で、美を感じる機能は何なのか?どうして感動するのか?何が、なぜそうなるのか?ということを探る分野なのであって、美しいものそのもの研究ではなく、それを感じる人間の仕組みや人間と美の関係性を探る学問(作業)なのだ。

    おおざっぱに言っちゃうと「視覚の探求」が現代美術だ。だから彫刻を作ったり絵を描くことだけではない。絵や彫刻はそれを構成する記号のひとつにすぎない。卓越した技量の完成が最終目的ではない。求めているのは今までにない感覚、感性の発見であり、その作品と感性の新しい対話なのだ。結果、新しい感性を開発するようなモノもしくは行為が、新しい美しいものとしてノミネートされる。

    だからすでに美しいと価値が確定していたり、すぐに美しいと感じてしまう(=美しいという言葉が浮かんでくる)ものは経験値の仕業であり、過去のモノであり現代美術の標的ではない。

    よく、数億円を超えて落札されたりする草間彌生や村上隆の作品を揶揄するが、欧米文化では知覚の開発を成し遂げた作品・現代美術家はとても評価される。月に行った宇宙飛行士、オリンピックの金メダリスト、ノーベル賞、映画スターと変わらない。最近は投資対象にもなってしまって少し不純にはなっているが、いい作品はやっぱりいい!草間彌生や村上隆の作品が海外で人気があって価格が高いのは、美しい絵だから、という理由ではない。

    ではそういう作品はどうやって判断したらいいのか?どういう作品が現代美術的に、評価される作品なのか?

    それは哲学・アート・世相などの文脈の流れを汲んでいることなのだ。文脈=コンテキスト、辞書で言うところに、脈略、前後関係、背景などとも解釈される。

    つまりいい作品は前後関係がしっかりしている、脈略がある、背景がちゃんとしている、ということだ。

    では現代美術で言う文脈って、脈略って、背景って、何?と言うことになる。

    ところで美学とは哲学であり、真理の探究が哲学の目的だと仮定すると、現代アートもしかり。文脈は美術史の流れというより哲学・思想の流れだ。それが歴史、社会システム、イデオロギー、世相などから個々人の欲望や思考まで、綿々と一本の糸でつながっていることが必要なのであり、逆に言うと真理にちかいからすべてにつながるのだ。

    例えば、デュシャンのレディメード作品はヴィトゲンシュタインからソシュールなどの言語的、構造主義的転回そのものだ。つまり泉と題されたデュシャンの便器の作品は、今まで作品が主体となって絶対的価値観を主張してきたが、20世紀に入ると、それはそれを受け取る側の解釈の仕方や語彙や体験などにゆだねられ新たな価値が創造される、といった哲学や思想の流れに合致しているのだ。

    同様にポップアートは当時繁栄を極めたアメリカ消費社会とシミュラークル(オリジナルなきコピー社会)な転回に組み込まれ、当時の時代背景や世相をより分かりやすくすることに貢献している。だからウォーホールやリヒテンシュタイン、オーデンバーグなどPOPアーティストたちは時代を先読みできた特異稀なる感性の所有者でもあったのだ。

    昨今クールジャパンの影響なのか、日本の若いアーティストたちは、私小説的な世界、詩情あふれる色合いやアニメタッチ、80年代を彷彿させるヘタウマ系の表現が好きらしい。

    今の若い人たちは技術があるので本当に上手い。でもアートは技術のうまさを競うものでは決してないし、既成の美しさを見せ合うことでもない。すでに述べたが、より深く感じさせる=知覚の感度を上げる作品を提示することなのだ。そのためには緻密な描写力で描く必要があったり、反対にわざとヘタに描かなくてはならなかったり、ただ日用品を並べるだけの作品をつくる必要性もでてきたりする。

    例えば日本で70年代、もの派という大きな運動があった。リー・ウーハンや関根伸夫、菅木志雄など活躍。拙筆から引用する。(ナイルスナイル124号「余白の芸術家 リー・ウーハン」より http://www.super-blue.com/product/p_niles18.html

    もの派とはー今までの西洋美術やそれに多大な影響の受けた日本の美術界。それら作品が訴えるメッセージや世界観はあくまで作者が作り上げたイメージにすぎない。そのことを疑問視し批判することによってアートの行く末=本質が見つけられないか?ーという難しいテーマに取り組んだのだった。それは人間中心で繁栄してきた社会そのもの、それら価値観に痛烈な批判を加えていることでもある。

    
 作家の手の加えられていない、描かれていない“もの”にこそ“アート”の本質が隠されている、それを示唆し人間のこれから出会う未知の領域を探すための地図は、すでにずっと以前から“もの”に描かれている、作家たちはその入り口を示してやるだけなのだ、と。

    ゆえに、まったく手を加えていないおおきな石やガラス板を立てかけるだけ、の作品になるのである。だからその文脈をわかっていないと、なんでこれがアートなの?ってなことになる。作家もそういう思想的な流れを組み込んでいるから彫刻したくても何か自分の印をそこに描きたくなっても一切しない。彼らにとっては手をつけないことが、描くことでもあり制作することになるからだ。

    昔は西欧のことばかり言うと、西欧かぶれとかいって非難された。しかし現代美術は世界共通語だ。何人だろうが国籍がどこであろうと同じ土俵で競い合い、検証しあうしかない。アーティストに言語や国籍は問わない。問われるのは文脈のより普遍的な分析・解釈の仕方だ。

    画家が自分の作品に対して「見る人が自由に感じとってもらえれば、それでいい」とよく聞くがそれは趣味のイラスト画だ。いくらデカいキャンバスに油絵で描いた、としても文脈の検討がなされていなければ、イラスト=解説画なのである。現代美術ではない。(しかし現在のコミュニケーション的転回という場においてその意味が生成・創造されているとも言えてしまうから一概に否定は出来ず、怖い)

    反対に文脈の裏付けがしっかりしていれば、デュシャンのようにイケアやハンズあたりから買ってきた金魚鉢をそのまま見せても現代美術になって法外な値段で売れてしまうのだ。そこには美術評論家、批評家が寄り添い、舌っ足らずな画家にかわって文脈の検証を裏付けてくれ、中間マージンをとるのである。

    よく見かける一発芸的な作品、思いつきアイデアだけの作品、子供が描いたような絵などなど。そういう無意識な物まね作品は底が浅いので、すぐに見破られる。恐ろしいほど、作家の意図が見てとれてしまうのが現代美術だ。これこそ古代ギリシャ人から延々と問われている人間の感性のすごさであり面白いところでもある。

    石ころひとつでも歴史や時代性、思想性など文脈をちゃんと踏まえ昇華した作品だったら現代美術史のアンカーポイントになる可能性が大なのである。それは国境を越え世界の哲学者、思想家、詩人、社会学者、アーティストなど知の開拓者たちに伝播し知と感性のメインストリームになって未来へ流れていくのである。
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