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    • Contemporary Art 2.012展
      記事掲載
















  • 敵は本能寺にあり!
    今朝もヤフーニューストップに「防衛相、無断退席中にコーヒー」(時事通信)と掲載。そんなこと、どうでもいいだろ!まったくこの不景気なのに(たぶん)給料一杯もらっているジャーナリストが発信するネタかぁ?!

    テレビのニュースではじまった一日が、PCではじまるようになってどのくらいが経つのだろう。最初の内はおもしろおかしく、政治批判、陰謀系をチェックしていたけどそれも最近、?と疑問符が浮かぶように。

    なにしろ言いたい放題だから賛否両論あってしかるべきなのだけど、なんか居心地が悪い。言葉のハシバシから伝わってくる憎悪や敵愾心、差別意識など今までこんなにも第三者の悪感情に触れるような環境はなかった。

    パロール(話し言葉)とエクリチュール(書き言葉)の違いはあるとはいえ、たとえば毎回、活動家系抗議デモの最前列に陣取っていなければ聞けないような罵詈雑言ばかりが目につくように。

    昔、新宿ロフトプラスワンで教科書を守る会のイベントを手伝ったことがあった。そのときにいた客の一人のヤジがすさまじかった。その業界では顔の知れた青年らしく回りは皆、苦笑してやり過ごしていたが。

    彼は面を割って客席から怒鳴り続けていたからその勇気はスゴイ!でもネットは匿名だし所在もわからない。ゆえに誰にでもヤジは吐けるし過激さに拍車がかかる。もちろん共感、賛同、為になる記事も同じくらいあるのだから悪口系は読まないでスルーしちゃえばいいのだろうけど、悪口、噂話、隣の不幸は蜜の味。やっぱり気になるし記憶に残ってしまうのが凡人のサガ。

    書き込みアルバイトっていう噂もあるらしいが、自分も含め反対意見を書く人たちは無意識かもしれないが、自分が正しい、自分の常識はみんなと同じはず、批判に値する、という良識的判断で声をあげられている方がほとんどだろう。きっと彼らと直接会って話したら驚くような善良な人たちなのだ(たぶん!)。

    ところで人間の脳は集団で生き繁栄したので、調和を崩す仲間を処罰するために進化したらしい。それは法や規則を破った者を罰するときに脳は快楽を感ずる部位で対応する、というのだ。違反者でない場合は、快楽ではない違う部位で対応するそうだ。違反者という認識だけで反応部位が変わるなんてなんかとても不思議。(ネタ元はNHK特番)

    ・・・というかこれってかなりショッキングなことじゃないか?!

    つまり弾圧もネットの罵詈雑言も戦争もこの集団自衛権のために繰り返されていたのだ。古今東西有史以来、たくさんの人間が追い求め熱望していたはずの平和な世界の最大の敵が、いみじくも自分自身の脳だったとは!

    なんとも皮肉を通り越して野豚バラ肉さんまいおろしだ。すべて進化の過程で得てきた獲得形質。人間はとどのつまり、脳という生物に支配されているのかも知れない。まさに敵は本能寺にあり!

    とくに正義なんていう言葉こそ脳の指令そのものなのだ。今でもあのブッシュのテロに対するプロパガンダは身の毛がよだつ。正義とかテロに屈せずと眉間にしわを寄せた深刻な表情の裏で、快楽に身を任せていたのだ。テロリストもブッシュも同じ、というより戦争は敵味方同じ快楽を求めてやっていたとしたら恐ろしい。

    赤信号は止まれ!自転車は歩道ダメ!歩きタバコはダメ!陰毛ダメ!?タトゥーダメ!駆け込み乗車ダメ!女性専用車両、男はダメ!義援金もらったら生活保護ダメ!ってどんどんダメダメづくしになっている。でもこれは人間が無意識に求めていることでもあるのだ。違反者を罰する喜びと法令遵守の喜び。

    だったら快楽を得るこの作用を変え、違反者を罰することが快感にならず、憐れみや同情を感じるようになれば、無為な戦争や争いごとがなくなる。でも進化の過程で、調和を乱す者を野ざらしにすることで社会が保てなかった。つまり現在まで生き延び繁栄して来られた理由のひとつに、違反者を駆逐して共同社会を保持することが勝ち残りの条件だったのだ。

    もし偉い脳科学者や脳神経学者たちが、絶対平和になるから!とその部位にメスを入れることを主張しても、はたして人間は賛同するのであろうか?レーシックみたいに手軽にできるようになったらどうなるのだろうか?本当に戦争がなくなるのだろうか?

    ところでネットメディアは新たな人間の習性をあぶり出したのかもしれない。

    ひとつが最近よく言われている「集合知」。一人の知識や意見ではなくて、ネットでデーターベース化された情報がパソコンのアルゴリズムや拡散によって勝手に修正、洗練された知に変化し、人間の価値基準や認識を左右する、という考え方だ。(超個体も生物界の集合知に例えることがある)

    かつては有識者やその道の達人、権力者、有名人など情報発信者(発信元)の素性が問われた。つまり情報の信憑性、価値は発信者が担っていた。でも現在は発信者はどうでもよくて、その情報量の多寡が重要なのだ。そしてシミュラークルな時代だからそれを借用、コピペで拡散されることによってどんどん信頼と影響力を得る、という構図だ。

    ウィキペディアもフェイスブックのイイネ!やシェアもその特性を利用したサービスだ。ウイキペディアは世界中で何百万何千万というヒットがあるから信頼性を得て、相互作用で書き込む誰かも信憑性のあることを書くようになり機能している。イイネ!がたくさんあれば為になると思い始め内容に信憑性が増す。

    新年のブログにも書いたけど「新年明けましておめでとう」の「新年」もまさにこの集合知によって変化したのではないだろうか。

    それまで言葉や用法などは御用学者と文部省から教育委員会、そして教師またはマスコミ用語集に反映され、私たちが習い使った。でも最近は、新年が明けるとは用法的におかしいから、ネットでそういう意見が多いから、と気づけば、新年があいさつから消えていたのだ。しかし、旧年から新年に明けました、という意味にもとれないではない。でもそういう意見が少なかったから恐らく新年くんは残念ながら退席するしかなかったのだ。(もし違う情報があればお教えください)

    たぶん、こんにちは、の「は」も同様だ。ネット・エクリチュール(ネット書き言葉)では、こんにちは、よりこんにち「わ」、もよく目にする。数年前はたまに、それを指摘するブログやスレッドも見かけたが、もうなくなった。恐らく「は」はなくなるのかも知れない。まあ、言葉なんて使用頻度で変化するものだからむしろこれが自然な形とも言えるけど。

    20世紀前半、言語哲学で活躍した哲学者ヴィトゲンシュタインは「腕が痛い」という表現が、他者では「彼の腕が痛い」とは文法上では正しいが、彼の腕の痛さは自分では感じられないので、正確には、痛がる仕草(行動)でしか表現できないと言う。「彼は腕を痛がっている仕草をしている」が「彼は腕が痛い」ということを正確に表現している、と言うのだ。面倒だよね、、、汗

    最初に言葉ありきじゃないが、西欧文化は言葉が重要だ。そんなヴィトゲンシュタインは絵画についてとても示唆のあることを書き残している。(ここでいう絵画は現代美術に置き換えられる)

    「絵画と言語は我々に無限な意味を与えることのできる二つの型式である。絵画は意味を持ち、なにかを語る。しかし絵画の意味を限定することも、語り尽くすことも出来ない。
     それは絵画の「語り」と「意味」が言語とは別の次元に存在し、絵画の伝える「思考」が論理空間には存在しないものだからである。絵画は意味を持つが我々はそれを思考出来ない。」(「ウィトゲンシュタインはこう考えた」鬼界彰夫著 講談社現代新書より)

    そんなんだよなぁ、思考できないのだ。だから面白いしこれからはもっと可能性もあると思うのだが、、、

    (写真はギャラリーQでの個展風景。1985年)
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