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    • Contemporary Art 2.012展
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  • マスメディアとツイッター
    結局、テレビなしの生活も10ヶ月ほど続いたが、挫折。

    今年も無事、野球シーズンがはじまり男女サッカー、オリンピックとスポーツ好きにとってはいかんしがたい。一番安い、そしてアナログ受像器でもまだ見られるIPTVを契約。

    青木が抜けたヤクルトも上田という若手が穴を埋めてくれそうだ!それにピッピーピッピーと突然、画面下にながれる緊急自信速報は、自分の自信のみなぎるタイミングを知らせてくれるので重宝する。

    ところでそんなTV再会の中で気になるのは番組とツイッターなどsnsとの連携だ。もちろん深夜になると、君のっ、ためにっ、僕は〜♪♪と延々と繰り返されるから、真新しいことではないのだが。

    恐らく、マスメディア的にはネットメディアは今が旬で影響力があると信じたくないけど信じはじめているのだろう。個人的意見や要望を反映するツイッターをはじめとするネット・オピニオンを取り上げることで、視聴者に対して番組の公正さと誠実さをアピールしようとする制作者側の本音がうかがえる。

    ブログやsnsなどネットメディアというものは、パスティーシュ(ゴッタ煮状態)で無編集が原則である。たとえ単語の変換ミスがあろうが内容が過激差別下品脅迫的であろうがチェックされないのである。それで炎上しても自己責任なのだ。もちろん過去2chの数々の事件から無政府状態ではなくなったが、現在でも中国のようにはならず、かろうじて自由な世界を保っている。(政府はなんとか規制しようと躍起になっているが)

    とにかくマスメディアは編集ありき、の世界なのだ。法律でもその不可侵編集権を認めている。だからどんなにツイッターの意見を流していたとしてもワンクッション人の手は介在してしまうのだ。その証拠にいまだかって誤字脱字で書かれたスレッドや放送禁止用語が羅列したものなど見たことがない。そのかわりわざとらしい絵文字や流行語でカモフラージュ、ほとんどが優等生的な無難なスレばかりだ。ある意味ヤラセと同じだ。

    ここで危惧されることはネット世界を知らない人々がそのテレビ局の策略にハマッてしまうことだ。ネットの意見も取り入れているのだからマスメディアはやっぱり公正だ!と信じてしまうことなのだ。

    金融界を騒がした信用創造ではないが無編集という権威権力というフィルターを通さず直接、パブリックに投げ込める、という共同幻想がここまで成長した一因であることは疑う余地はないだろう。と、同時にネットも信用に値する、というパラダイム(価値観)が暗黙のうちに育まれたのだ。かつてEコマース市場がここまで成長するとは誰が信じていただろう。

    くそっ、今思うと数年前までネット平原には金鉱がたくさん埋まっていたと思うと後悔先に立たず!

    しかしネット社会民と非ネット社会民の情報格差は所得格差と同様、広がる一方だ。スマートフォンはその是正に若干は影響しているのだろうが、大元のメーカーが巨大になり体制側になってしまうことも懸念される。OSやサーバー上でのフィルタリングや監視も可能なのだから。今やクラウドだ。エシュロンみたいな検閲ソフトを外部に知られずクラウド内だけで運用することもできそうだ。

    以前、振り込めサギ多発によるATMの取引制限は、預金封鎖の口実ではないか?と書いたことがあったが、クラウドもある意味、情報封鎖を容易にする。とにかくネット社会の一番の特性は反中央主権で分散的なネットワークなのだ。クラウドはそれに逆行していると感じるのは悲観的すぎる?

    自分はウエッブをはじめたときの一番のカルチャーショックは、他人の日記がのぞける、と言うことだった。それまで日記というものは引き出しの一番奥に隠し一生涯、親にも見せないものと信じていたものだ。それがネットでは本屋の棚のように個人のナントカ日記が並び自由に読めちゃうのだ。

    もちろんフィクションも多いだろうし、すぐに飽きてしまうことも折り込み済みだ。そんなことよりも赤の他人の私情とダイレクトに接せられる現象に驚いたのだ。それらはスキャンされた手書き文字ではなくフォントというパソコン活字に変換され、見栄えが従来のマスメディアと似ていたことも多大に影響したのだと思う。プライベートとパブリックの差とはそんな些細な差にあったのかも知れない。

    この時点からマス(大衆)メディア幻想は終焉に向かう。かつては社会の木鐸、ペンは剣(権)より強し!国民の見方と味方だった絶大な信用を失っていく。数々の情報を中央制御室でどっかり腰を据えた権威のチェックを受けずして、かつより迅速に情報を受け取ることができる。これはまさにポストモダニズム社会の典型だ。

    ジョン・フィスクは「メディア問題」(1994)の中で「現実の二次的表象(事実の断面)を提供するのではなく、自らが媒介する現実に作用し、それを生み出す。〜 略〜 問題となる出来事はすべてメディア上の出来事である。メディアはレポートし報道するのではなく、今やニュースを生産しているのだ。」と看破する。

    つまりニュースや記事はたくさんあるすべてを吟味した結果で国民の重要性を検討し報道されていない、ということなのだ。極端に言ってしまうと遠い場所の取材など経費がかかる事件は取り上げず、安くつくニュースを選ぶことも自由裁量権のうちなのだ。かつて某テレビ局のお仕事をしていたころ、元報道局プロデューサーがニュース番組が一番金がかかる、と言ってたことを思い出す。

    ずっとネットでも話題になっている「政治と金」、「説明責任」と連呼しつづけていることは最たる実例だ。韓流ブームやKポップ問題も、彼らタレント側は局に出演料(放映料)を払っていると噂に聞く。だったら政局に不利な事件をマスメディアに制作してもらおう、制作費は官房機密費から払おう、となっていてもおかしくない。もはやそんなマスメディアは野ざらしになったフリーペーパーのごとく広告媒体だけというのが実態かもしれない。

    自分が学生の頃は朝日新聞の天声人語は国語や作文のお手本だった。ゲバゲバ90分は世界一のエンターテインメント番組だった。真っ赤な太陽で高校生活に憧れた。イレブンピーエムで大人の世界に憧れた。田中角栄の悪行にあきれ果て政治家不信を募らせた。

    でもみんなそれらが虚構だったのかと思うととても悲しい。少なくともマスメディアは生活に欠かせず役立っている。いまでも義心を持ち戦うマスメディア戦士がいることを信じて疑わない。

    これからは、見ない読まない信じない、が一番なのだろうがリテラシー(批評・判断能力)さえあれば逆にマスメディアは知的娯楽にもなる。つまり裏読みをして楽しむこともできるのだ。将棋のように捨て駒で王手する頭脳ゲームだ。

    楽しみ方のたとえだが、4月3日に襲った爆弾低気圧の日、国会では郵政改正法案が国会提出されている。しかし当日夜も翌日も低気圧のニュースで持ちきりになった。そして4月11日に衆院通過だ。と同時に北朝鮮ミサイル疑惑がトップを飾る。何という、なでしこジャパンびっくり!の華麗なパス回し。

    だいたい大物芸能人ネタや天候災害、大事件の裁判と重要法案がらみの政局の連動が、ここ長年の慣例だ。いまは原発のために木嶋被告が生死をかけてがんばっている。わかりやすいよね。こうなると裁判所と国会は重要法案と重大裁判が同日になるように示し合わせていると非難されても仕方ない。

    「新聞から日付を取り去ってしまうと、その記事はエキゾチックですばらしいシューレアリズムの詩となる」(マクルーハン+Eカーペンター著「マクルーハン理論」平凡社/大前正臣・後藤和彦訳)とは面白い喩えじゃないか。

    まあ、このぐらい余裕をもったほうがいいのかもしれない。

    君のっ♪ためにっ♪僕は〜死ねる〜っ♪
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