ARCHIVES















    • Contemporary Art 2.012展
      記事掲載
















  • 陰謀説はなかった!日本語の二重構造に見る日本の本質と現代美術
    ずいぶん前に、こんなサイトがあった。
    【「国民をコントロールする方法」という格言に大きな反響】
    http://labaq.com/archives/51257102.html

    「通常、民衆は戦争を望まないが、人々を指導者の言いなりにするのは簡単です。国が攻撃にさらされてると国民を煽りなさい。平和主義者のことを、国に危機をもたらし、愛国心がないと公然と非難しなさい。どの国でも同じように効果があります」

    元ネタはナチス最高幹部 ヘルマン・ゲーリングがニュールンベルグ裁判で言った言葉だそうだ。なんか、今の尖閣問題にもバッチリ当てはまる。

    先回のブログでアイデンティティについて書いた。今回もその続きを展開したい。

    「折口信夫に言わせると、現代の詩は何かに影響されているか、といえば、それはフランスの詩でもない、ドイツの詩でもない翻訳の詩の影響を受けていて、実に不思議なものを創っている。」(ことばと芸術より。加藤周一対談集 「演劇の理想像」小林秀雄1951/かもがわ出版)

    これって現代アートも一緒じゃん。棟方志功や岸田劉生など、雑誌「白樺」でゴッホなど後期印象派の影響を受けた、著名な画家がたくさんいたが、実物の絵を見て影響された画家は、果たして何人いるのか?

    やっぱり不思議だ。実物を見なくても影響し、共感できるのだ。逆に言うと現代美術(当時の先端アートという意味)の浸透力のすごさの証とも言えるのだが、、、。(ちなみにアンドレ・マルローは、写真集などは独立した作品として、「空想美術館」と呼んでいた。)

    ところで、現代美術のアイデンティティとは何か?

    自分は、強いて言えば、難解さ!でなくて(笑)、『感性の拡張』、または、『視覚表現の探求』が、現代美術を、現代美術たらしめるキーワードだと思っている。その感性の拡張や視覚表現の探求が、作品全体を支える骨格にあたる。またその作品とは、探求の足跡であり、アーティストが見つけたお宝の隠し地図とも言える。

    日本でも、現代美術のジャンラはある程度、認知されてきたとは思うが、やっぱり折口信夫が言ったように、翻訳モノなのだ。草間彌生、棟方志功や具体グループ、村上隆など、逆輸入され注目されるのを見ても、それは明らかだ。

    たとえば草間彌生や具体グループの作品に、美を感じ、その超越した技工に驚き、伝統のすばらしさを感じる人は、どれだけいるのだろうか? ほとんど人は、白人の鼻の高い外国のエライ人がいい!と言うから、海外で有名だから、という既成事実が、評価の内実ではないだろうか。

    もちろん、それがキッカケとなり、本物に触れるうち、ほんとうに感動し、好きになる人も多いから、決して悪いこととは言わない。

    しかし、かれら作品の本質や評価は、その思想部分だ。かぼちゃやドットを描くその草間彌生の思想や精神性が作品なのであって、美術館やギャラリーで見るカボチャのでかいオブジェや、ドットの連なりは、その記録や刻印にすぎない。ゆえに、美術館とは作品の共同墓地だ、という例えもある。

    鑑賞者は、その刻印(作品)から言葉では置き換えられないエネルギー(アーティストの精神)が、人種や文化、言葉の壁をすり抜けて伝わってくる。だから、ワールドワイドに共通した評価を持つことができる。欧米では、芸術というと、ファインアートであって現代美術のことを指す専門用語にちかい。だから小説を芸術とは言わないし、音楽は音楽だし、伝統工芸品を、ファインアートとは言わない。(ちなみに建築はファインアートだ。技術的な部分はインジェネリアだ)

    ところが、日本ではいまだ、洋画、日本画、写真、工芸、漆芸、金工、陶芸、生け花、パッチワーク、人形、イラスト、マンガ、書道なんかもろもろ十把一絡げに『芸術』、『アート』でくくってしまう。それぞれの表現には、それぞれの役割やアイデンティティがある。でも、そこを無視して、クールジャパン! ひたすらキレイ、すごいテクニック、メチャかわいい=アートだ! だから現代アートも同じだ、ではない。

    鑑賞者や見る側はそれでも構わない。が、これでは現代アートについて知らない人々にとって不親切きわまりないし、現代アートの本当の素晴らしさを体験できない損失は、計り知れない。

    つまり、その作家が提示する精神や思想で、知が覚醒し、共感、共振し、鑑賞者自らの感性や能力が高まり広がる。そんなふうに人が、より知的に幸せになれることが、現代アートの醍醐味であり、大きな感動を呼び、他にないエンターテインメントにもなり、高額な価格で取引される理由であり、現代美術の存在価値なのだ。

    では、日本では、なぜ、現代アートは、いまだわけのわからない、あいまいな評価のままなのか? 逆輸入ばかりで、自国での独自の発展(市場)がないのか? なぜ表面的で技巧的な部分のみに着眼し評価して、その思想や精神性が重視されないのか?

    日本は、平安初期くらいから、国家体制や貴族社会、文化、言語、都市計画などすべて中国を模範として形成されてきた。中国は、かつての師であり、1500年くらい、つきあってきた国なのだ。それがいまとなっては跡形もないが、この言葉の問題は、奥が深い。



    先回書いたように、加藤周一氏は、日本人のアイデンティティは日本語にあるのではないか、と言った。それに関し、とても示唆に富む議論が、大野晋氏と繰りひろげられていたので、重要部分を書き出してみる。(同書「日本語の二重構造」P294より)

    加藤「ながい間、日本人は、その感情生活を日本語で書いて、知的生活をシナ語、あるいは漢文で表現してきた

    大野「最初ヨーロッパを取り入れるときに日本は、直接にヨーロッパ語を持ち込まないで、従来の外向であったところの漢字、漢文の技術を使ってヨーロッパ語を漢字にいちおう置き換えて、日本の中に取り入れた。だから100年でヨーロッパに、まがいなりに追いつこうとやってこれた。」

    つまり彼らが言うところの、日本の文化や知的活動とは、外向=輸入概念と、内向=日本流の二重構造になっている、と言うのだ。日本の先住民は、独自の言語をもっていなかった。あっても文明までにはならず、中国のようには発展しなかった。

    ところが、隣の中国は驚くべき国家になっていて、盛んに物品に限らず宗教や思想も流入してくる。当時、それらを言い換える言語や宗教など知的生活の基盤が、中国より劣っていた日本は、それを吸収、活用、補うため、漢字を借用し理解しようと努めたのだ。

    おそらくその際、漢字の表意文字という性格も、吸収理解する為になったのだろう。表意文字は発音できなくとも理解できる。またいろいろな意味の組み合わせで独自に解釈でき、知的活動を刺激する。

    たとえば、自由を「由自」と書いても、権威を「威権」と書いてもなんとなくニュアンスが浮かぶし、勝手な意味のコジツケも可能で、新語も簡単につくれるから便利で親しみやすい。でも、FreedomをDomfreeと書いたり、AuthorityをThorityautで、漢字のようには自由ならない。

    しかし、それも人口の一割にも満たない貴族や武士たちの知識に限られていた。江戸時代まで、侍のたしなみは、論語や朱子学の教養、中国人にも理解できる漢詩を書く、ことを考えても、よくわかる。それが開国になり、文明開化だ。中国に限らず、欧米から外来文化がどんどん押し寄せてきて、日本人の生活も急変。それまでエリートに限られていた知的生活が、一般大衆化され、一気に巷に広まっていく。

    ゆえに知的活動とか文化は、大衆化されたにも関わらず、特権階級的な幻想から脱せられず、翻訳的貴族趣味の呪縛から抜けられず、輸入概念のまま(=国産は認めない)、今に至っているのではないか。

    加藤「〜(明治時代になって)徳川時代に漢文ー和文の使い分けが鋭く意識されていたようには、翻訳語文化ー伝統語文化の区別が、意識されなくなったと思います。たとえば、自由、民権、人権といい、民主主義という時に、それは漢字であるために、本来の日本語であるような気がするけれども、実はそうじゃない。そういう新造漢字のために情勢が複雑になったということがあって、しかもそれが大衆化した。〜」

    芸術、哲学、科学という言葉は日本人最初のフリーメイソンリーとしても有名な西周氏が、翻訳したことは周知のとおり。でも、それらは日本語ではない、と加藤氏は指摘する。

    加藤「〜完全に消化されたんじゃなくて、置き換えの性質を今なお持っているということの一つの証拠は抒情詩だと思う。日常生活の中で、人権、自由、権利、義務という言葉は翻訳概念的性質があり、それは本来の日本語の中で育ってきた概念に比べるとほんとうに肉体化していない面があるようです。」

    肉体化していない!まさにその通り。

    それが理由に、世界や日本がどうなろうと、社会がどう変化しようと、いつまでも、世相や社会にコミットしない作品が量産される。だから現状を否定して(むしろ否定する根拠がない)あらたな世界観が、作品が、日本独自には生まれてこないし、それを受け継ぎ進化させる欲求、むしろそのイメージすらわかないのだろう。

    知の地平に対しては、否定して構築する、アウフヘーベン(止揚)するという方法論がない。それは、学問や知的活動を、系統的に思考することを困難にさせるし、その放棄にもつながる。まさに、年号とヘッドラインを一致させるだけの、戦後のババヌキ歴史教育みたい。(むしろ、日本の表現業界には政治や社会性を排除する傾向すらある。つまりアートとは、月見ダンゴと一緒で、偉大な自然への貢ぎ物なのだ)

    たとえば、日本画の大家、小倉遊亀のウォークマンをした和服女性の斬新な肖像画がある。この絵だけをみれば、まさに現代アートと思うが、そうとは言わない。あくまでも日本画だ。だいたい日本画の名称も明治になって西洋画が輸入されたのに対して区別するために与えられたにすぎない。そういう意味では、この呼称は、伝統的だから、日本古来の技術だから、といい名付けられたのではないのだ。おかしくない?!

    井上ひさし氏は「前の歴史を否定しないと新しい考えは生まれてこないわけですが、日本では前のことは忘れさえすればいい」と言う。(同書、井上ひさし氏対談「日本語の現状を語る」より)

    そう、忘れちゃうんだ、日本人は。それは変化に富み自然災害の多かった日本人の自然に対するとらえ方に起因するとは思うが、思想的文化的な面にも、同じ意識で相対する。

    加藤「ほんとうに明治以降の日本の抒情詩の伝統、われわれがそれを読んで、ほんとうに感動する美しい日本の詩だと思うものの中に、権力といい、人民というような言葉は出てこないでしょう。」(金子みずずが好例だ。権力や自由なんてコトバを使わず、その本質を表している)

    大野「だいたいゴッドを神と訳したから、八百万の神と、いわゆるゴッドの区別がつかなくなって、神という字で書いちゃうですね。」

    加藤「それがいまなお翻訳語の意味のズレ、または不消化ということの証拠の一つだと思うのです。〜中略〜 だからふたつの層があって、表向は輸入概念で、内向は日本語だという仕掛けは江戸時代と同じである。しかし、江戸時代と違うところは、そういう構造が大衆化していること、〜中略〜 (欧米文化・知的活動は)漢字に訳されていて、アルファベットを見るわけじゃないから、輸入の概念起源がボカされていると思うのです。」

    うんうん! だんだん霧が晴れてきた! 光が差してきた! 

    なぜ、日本で自発的な新興の文化が根付かないのか。浮世絵やマンガが、いい例だが、自国じゃ、一段も二段も低く見なすのに、いったん海外(それも欧米のみ。バングラディッシュやキリギスじゃダメ)で評価されると、舌の根も乾かぬうちに、逆輸入でもてはやす。そういった自国文化を認めようとしない国民性と社会環境。

    だから明治時代、さかんにパリに留学した先陣たちにならってよく言われたのが、ニューヨークやパリ、ロンドンのどこでもいいから、発表する。つまり箔をつける。日本にいる連中には、わからないからキレイな写真をとっておけばいい。それで帰ってきて銀座で発表すれば、日本の中でウゴウゴしている権威メタボが、画壇に引き上げてくれる、と。(自分が若い頃の話です。)

    プラハとかブダペストとかベオグラードとかイスタンブールとかスウェーデンの美術館で発表したところで、相手にされないのが日本の美術界なのだ。NYかパリ、ロンドンじゃないとダメなのだ。(スイマセン!自分のグチです)

    国学者の本居宣長が、中国翻訳の日本書紀ではなくて口承、口伝部分が多い大和古来の古事記をもとに天皇を研究したことも、自発的文化や歴史の断片が口承によって、受け継がれているという見識があったためだ。日本書紀だと、中国モノだから翻訳され、真実があいまいになっている、と気づいていたという。

    つまり、日本人の精神性や心の一部に、すでに中国が実効支配している脳領域があるのだ。知的なモノや文化的・制度的なモノにかんして、日本人は、翻訳ブツもしくは外来物フィルターを通ったものでしか、受容体(レセプター)が機能しなくなってしまった。

    加藤氏や大野氏の述べる翻訳語(輸入概念=パブリック)と伝統語(日本流=プライヴェート)の基準で、日本人は何でも、無意識に上下関係を構築し、差別化してしまう。

    自分たちより優位にある国のものしか認めない感覚、また権威あるモノしか受け入れられない感受性。それが韓国などアジア諸国への偏見や差別へも、つながっていると思うし、自国文化の軽視となって現れている。

    その上、権威主義や学歴主義、マスコミの過大な影響力などを補強、増大させ、その感覚が子々孫々、受け継がれてきた。つまり国産品でも、輸入物証明書(インボイス)をとらなければならないのだ。めんどくさい!(独立系ネットジャーナリズムが、マスメディア的な影響力をすぐに発揮できないのも、このあたりに起因しそうだ)

    セロトニン阻害物質のように、日本人のミーム(文化的遺伝子)に、知的生産物阻害物質みたいに働いているホルモンがあった。それが漢字ホルモンというかは、知らないが、(微妙なコトバ)とても納得できる自分がいる(笑)

    話がずいぶん飛躍したけど、考える、思考することは、コトバによるシミュレーションだ。芸術は、コトバでシミュレートできない、コトバで、表現されるまえの状態だ。それはあたかも、新たな星の生成時のようにエネルギーが、満ち満ちた状態なのかもしれない。芸術が、コトバになる前のものだとしたら、漢字翻訳なんてしてたら、本質なんて絶対わからない。

    実は、本質なんて幻想で、正直なところ、みんなは、自分が考えているほど興味ないって思うこともある。それより輸入物信仰にちかい感覚、つまりその刺激が大事で、中身は二の次ってことだ。

    そっか〜、対米追随政府とよく言われるが、それは日本人のサガだった。今だ、平安時代のまま思考がストップしてて、制度や政治や思想など難しい知的所産は、外来じゃないと認めない。いくら政治家がもっともな、まともなことを言っても、思っていても最終的には、翻訳されたモノでないとダメなのだ。

    だから陰謀説などは本当は存在せず、国益をわすれちゃった日本政府が自主規制のように率先して、おねだりしているのが、真相なのかもしれない、年次外交要望書なんて草案下書きは、本当は日本政府がしてたりして!(笑)

    こう考えると、真に日本の自立・独立をはたすまで、まだまだ時間がかかりそう。それより自立する前に、日本がなくなりそうで怖いけど、孫崎さん!

    そうだ、唯幸論で行こう!ってこれも漢語だよなぁ〜。和語でいうと、「幸せだけを信じる私」ってか・・・ほんとパブリックとプライヴェートに、自動的に分別されてる!

    (以上、内容はあくまでも持論私論です。)
    0930den03.JPG
    HORMONE SEKINE OFFICIAL SITE | comments(0) | trackbacks(0) |
    <<Sa Okayame 日本&セルビア現代美術展レビュー | 日本人のアイデンティティ >>