Deprecated: Assigning the return value of new by reference is deprecated in /home/users/2/kilo.jp-superblue/web/aohitokun/class/View.php on line 25

Deprecated: Assigning the return value of new by reference is deprecated in /home/users/2/kilo.jp-superblue/web/aohitokun/class/View.php on line 30

Warning: Cannot modify header information - headers already sent by (output started at /home/users/2/kilo.jp-superblue/web/aohitokun/class/View.php:25) in /home/users/2/kilo.jp-superblue/web/aohitokun/class/View.php on line 81
あおひと君ブログ::神の視点、地上の視点
ARCHIVES















    • Contemporary Art 2.012展
      記事掲載
















  • 神の視点、地上の視点
    (前回から続く)

    その言葉は『日本語は敬語があって主語がない』(金谷武洋著 光文社新書)の中の、文字がつらなる青い山脈に、まさにダイヤモンドの原石のごとく、ひかり輝いていていました!



    それが先回のブログ最後で書いた、「神の視点」「地上の視点」。つまり、金谷氏は、英語系言語が神の視点、日本語は地上の視点で、話者と聞き手が存在していると述べている。

    I LOVE YOU

    アイ・ラヴ・ユー。この意味は?と問われたら、「私はあなたを愛しています」だろぅ、学校で習った。

    しかし、我々日本人(日本語が母国語の人)が、実生活で、そんな日本語は使わない(自分は実生活で使うような場面がない)。愛してるよ!とか好き!、で十分、通じる。

    「僕は愛しています」、「あなたを愛しています」と主語や目的格を加えても、それは通じるが、なんかニュアンスが変わってきてしまう。さらに、「愛している、僕は、きみを」でも「好き、あなたのことを、私は」と言ったって同じ意味に変わりない。

    それが英語表現になると、Iの主語、youの目的語を省いたら成り立たない。Loveだけでは、日本語の好きだよ、とはまったく違う意味になる。好き!愛してる!って言いながら、JKが彼の胸に抱きついても通じるが、Love! Like!っていって彼の胸に飛び込んでいっても、彼は???キョトンとしてしまうだろう。

    彼女は世界平和を訴えたいのか、NYが好きなのかもしれない、と彼は、彼女のそのLoveに混乱してしまうだろう。そこではI LOVE YOUと言わないと、彼は、素直に喜んでくれないのだ。

    このように英語は、主語を外すと意味が通じなくなる。日本語は主語がなくても通じる。金谷氏は、このような言葉の構造が、日本人と米英人など英語を母国語とする人々の、思考、思想、感性、行動にとても影響を与えている、またその文化的、歴史的背景が反映されていると言うのだ。

    もちろん、英語系SVO民族たちは、初めに言葉ありきの、キリスト教、その母体となったユダヤ教。モハメッドが、アッラー神の通訳だったモスリムなど一神教的歴史背景も、ルネサンスやデカルトなどの哲学に見る、人間中心主義思想も多いに影響を与えてはいるのだろうが、長くなるのでここでは省きます。

    本書より引用(P16)【日本語の場合は、この「対話の場」に<話し手>と<聞き手>が一体となって溶け込むと言うことです。
     英語をその典型とする近代西洋語はこれと実に対照的です。<話し手>は、「対話の場」から我が身を引き離して、上空から<話し手>と<聞き手>の両者を見下ろすような視線を持つように私には思えます。】また(P17)【極端に言えば、西洋の<話し手>は<聞き手>と切れているのに対して、日本語では両者がつながり、同じ方向を向いて視線を溶け合わすと言えるでしょう。】

    自分は、これを読んだとき、目からコンタクト、じゃないウロコが落ちた。そっか〜だから日本人は議論ができないのだ、仲間意識が強く、差別意識も強いのだ、と、疑問がすすすっと解けていった。

    本書に戻ると(P21)【好いている「僕」を主語に、好かれている「君」を直接目的語におく西洋語は「あたかも、愛を自分がコントロールできる感情でもあるかのように」SVO(主語・述語・目的語)で言語化します。
    (中略)考えてみると「好きだ」は、意図的な行為ではありません。これは「する行為」ではなく、「そうである状況」と日本人は考えるのです。
    (中略)結婚式の招待状にも、この度結婚することに「なりました」と書きます。もしこれが「結婚することにしました」と書かれていたら、読んだ人は行間に「決意」を感じて、「おいおい、何かあったのか」と思うことでしょう。】(括弧内は加筆)

    本著では、一体化する、視線が溶け合う、<話し手>と<聞き手>のいくつかの例を、あげている。(P25)たとえば、「手前」という自分の意味の人称代名詞を、相手に向かって、てめぇ〜ぶっとばすぞ!と言っても通じる。でも、眉間にシワよせて、自分をぶっとばすっ!、という意味でも間違いじゃない。えっ!なんで自分をなぐるの?!って思うと、チンピラにカラまれても笑っちゃう。あおひと君は、「てめぇ」で自分のペニ笛、吹くけどね!

    同様に「己(おのれ)」が俺、おんどれ、になって、おんどりゃ〜!ってなった。ドス振り回してカチ込みする高倉健は、「私は〜っ!」て、怒鳴り込んでいる。というように、自動的に自分が、あなたの意味にすり替わっていても、違和感はない。つまり話し手も聞き手もその場で溶け合っているのだ。この地上で溶け合った、あなたと私は、もう心身一体だ。

    もう一つ、興味深い実例をあげている。(P28)川端康成の小説「雪国」の有名な冒頭のフレーズの英訳とオリジナルを比較する。すると「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」がサイデンステッカーの翻訳では、
    The train come out of the long tunnel into the snow country. となると言う。

    ここで日本人だったら、主人公は、汽車に乗っている乗客のひとりで、トンネルから汽車が出て行く時間的経過と、その主人公が抱いているいろんな感情なども、その言葉の中から読み取るのではないだろうか?

    しかし、それが英語に翻訳されると、主人公は汽車(Train)になっているのだ。英語では、汽車がトンネルから出てくるその情景を描写しているにすぎない。つまり上からの視線である。著書曰く「話者が世界を支配するかのように見下ろすSVO言語」になってしまった現代英語のせいだ、と言う。

    ネイティブスピーカーに、この場面を絵に描かせると100%、俯瞰した雪山のトンネルから汽車がでてくるシーンを描くのだそうだ。しかし、日本人だったら汽車の中にいる自分から見る情景を描くと思う。向かいの座席や車内、マドから見える白く明るくなった前方の光とか、思い浮かべるはずだ。

    こういった日本語の特性が理解できると、ありきたりな日々使っている慣用句にも感動させられる。

    「おはようございます」は、「お+早く+ございます」から転じたフレーズだという。(P43)これは対話の場に会話者の二人が、「早い」という状況にともに感じ入っている。まさに「共感」そのものを表している、という。かたや英語の「Good Morning」は、I wish you a good morningの略だそうで、ドイツ語のGuten Morgenの(en)目的格使用が傍証になる、と解説する。つまり神からの目線、「私はあなたに、いい朝を望む」と言うことだ。

    われわれ日本人だったら、そんなふうに言われたら、たとえば出勤途中の朝の駅前で、嫌いな議員さんから「私はあなたに、よき朝を望んでいます!」なんて言われても、「こんな朝っぱらからあんたに望まれたくないよ!こんな国になったのも、あんたたちのせいだ!」となっちゃって、その一日はストレス全開デーになってしまう。

    でも、日常では、英語系人たちに、グッドモーニング!と言われても、腹が立たないのは、自動的に、日本語のおはよう、という意味にすり替わっているからだ。それはともに分かち合ういいことかもしれないが、しらぬまに彼らと共感している自分もいる、と言うことになる。あくまでも、英語系の人々の潜在意識では、「私はあなたに、いい朝を望む」と、神の視線の住民なのだ。そこがわかってくると、なんか白人への劣等感や、英語恐怖症も少しは薄れるのではないだろうか。

    議論が苦手な人は、こういう日本語の特性である、相手も自分も、溶けあっちゃう共感の場で、議論しようとするから、相手を否定できなくなって、つまり、それが自分を否定することにもつながって、論旨がバラバラになっちゃうのだ。また感情にも移入しやすい状況だから余計に気持ちが高ぶってしまう。

    それが、英語系SVO言語だと神から視線なので、まるで言葉のアバターが、はるか下にある土俵のうえで、相手の議論アバターと戦っているようなものなのだ。議論をゲーム感覚で味わえる。ゆえにいくらカンカンガクガク、いくら白熱した議論を交わしても、終わった途端、討論相手と気兼ねなく一杯、飲みに行けるのだ。日本人だったら、ちょっとした指摘でも悔しくて、感情が高ぶってしまい、当分のあいだ、相手と落ち着いて仲良く話せないことだろう。

    また、言葉で感情移入がしやすい利点は、同族意識を育てるのが、とても早いし得意なツールということでもある。言語上、NOと言いにくいのだ。このところ、官邸前デモも盛り上がっていて、共感するのはいいが、一緒にいてシュプレヒコールを叫んでいれば、身も心も同体だ、と錯覚し、個人的境界が消えてしまう。

    そこで違った意見を発したり、違う行動を取ったりすると、一気に感情が裏返る。つまり、地上の目線が溶け合った参加者全員への否定につながり、嫌われる。また、マイクを突きつけ、次はあなたも演説しなさい、と強要して、拒むと同志じゃない!と決めつける。

    ゆえに、学校でのイジメも、村意識も、外交下手も、仲間はずれも、本書の言う地上の目線で、引き起こされる数々の弊害だ。政治家や少なくとも外務省、外交政治は英語でしないと損をする。交渉相手は、神から目線で冷静に、楽しみながら、はげしい言葉を投げかける。地上で交渉する日本人は、ずっと降りかかってくる言葉の剣を、払いよけながら交渉しなければならないのだから、戦う前から勝敗はついているのも同然だ。

    でも、そういうことがわかると、まだ対処しやすい。演説のうまい人、会話上手なモテ男たちを観察していると、相手の立場に立って発話している、と言うことなのだ。話しのうまい人たちは、まるで聞いている本人が、自分の意思かのように錯覚さえ覚えさせる。だから、オレオレサギも、対米追随国家もすぐできた。

    日本語は洗脳しやすいのだ。そのときの言葉の勢いや情感で、騙されやすいのだ。冷静に言葉の意味をいちいち検証はしないし、そういうことが、簡単にできる文法構造ではない。だって、最後に、思う、とか、そうだろ、とか違うか?とか、共感を後押しするような動詞がくるから、目的も主語の検証もなおざりになって、そうだそうだ、ってなってしまいがち。

    まず、少しでも相手が信用できると思うと、共感、共視しようとする。そして、共感が深まれば深まるほど、抜けられなくなるし、否定できなくなる。なにせ、相手を否定すること=自己否定だからね。もちろん、はっきりモノをいえる人たちも多いけど、少ないと思う。

    また、そういう人たちの否定や反論も、もとをただせば、自分の共感領域への引き込み、つまりエゴの押しつけだったりする。という、とらえ方になる。お互い地上にいるのだから。ネットでもよく炎上するのが、そういったちょっとした言葉の使い方で生じる誤解だ。とにかく、お互い溶けあっているから、動詞でする指図や、命令口調は御法度なのだ。

    その結果、日本語にはそういう性格や行為を表す単語の多いこと。厚かましい、恥知らず、厚顔無恥、でしゃばり、図々しい、傲慢、無礼、僭越、不遜、面の皮が厚い、生意気、しゃくに障る、など、いろんな言葉が生まれてきた。

    ここでは敬語について詳しくは、本書を読んでもらうことにして、簡単にいうと、敬語は恐怖心から生まれた。お互い地上にいるから、言葉による軋轢も生まれやすい。ゆえに先に挙げたような、悪感情に対する単語もたくさん作り出された。かたや、それを回避するため、敬語という相手をたてる用法も発明された、と解説している。

    英語系言語は、お互い上から眺めているから、敬語も必要ない。(補足だが、フランス語やドイツ語などまだ、複数で丁寧、敬語的な使い方も残っている)とくにアメリカ・ビジネスじゃあ、まったく反対側の倫理感。とにかくアグレッシブであれ、だ。

    その反面、日本語のいい点が、俳句などにもある繊細な詩の宇宙感だ。本著では俳句の世界もとりあげ、わびさびに代表される日本文化の繊細さ、また自然中心主義的芸術感にも触れている。あと敬語についても多くのページをさいているが、もうひとつ面白い実例を挙げていた。

    それは力士の四股名(シコ名)だ。いま、白鵬と日馬富士が横綱で、鶴竜(モンゴル)、稀勢の里、琴奨菊、琴欧州(ブルガリア)、把瑠都(エストニア)が大関だ。このうち日本人力士は、稀勢の里、琴奨菊二人だけ。あとは外人。日本人力士にもガンバって欲しい。それで言いたいのは、外人力士の四股名には架空も含め動物名を使っていること。そして日本の力士には植物や自然の山とか海などが多いというのだ。

    確かに番付表を見ると、外人力士では、把瑠都、阿覧(名前は欧虎)栃ノ心くらいで、あとの四股名には動物名の鶴や龍、鵬、狼、鷲などが使われている。最近は日本人力士にも龍を使った四股名(常幸龍、千代大龍、妙義龍)もいるし、碧山(ブルガリア)、時天空(モンゴル)などもいるから、これも時代の趨勢だろう。ところで、大鵬という大横綱がいたが、ウクライナ人のハーフだったそうだ。

    それで、日本人には植物や自然崇拝(アミニズム)があって四股名に例えられるように、植物や山や海など自然を、力の象徴とした。若乃花、貴乃花、琴櫻、北の湖、北勝海、双葉山などなど。動物は本来、日本では強いものではなかったのだ。それが今や横綱は、曙(64代/ハワイ)から始まったが、武蔵丸(67代・ハワイ)、朝青龍(68代/モンゴル)、白鵬(69代/モンゴル)、日馬富士(70代/モンゴル)と動物名が入ったままだ。

    ちなみに何度もいうが、古事記などの神話によると、あおひと草から人は生まれたとある。だからあおひと君だけど、それにも明らかなように、古代日本は自然、草木などを崇拝し、そこに力の源を考える信仰だった。桃の節句も花見もお月見も、ご神木も、延長すれば伊勢神宮の式年遷宮も、草木、自然崇拝のタマモノであり、象徴なのだ。

    日本は美しい四季と南北に位置する風光明媚で自然環境がとても豊かな、また日本語に見るような人の心を大事にする言語を使う、誇れる国だ。そんな日本が、アメリカやヨーロッパと一緒にいまから並んで、同じ土俵で競い合って、どうなる? 

    それよりもジャパンガイドじゃないが、このすでに存在している自然の宝庫と、日本人のフレンドリーでオスピタリティな精神文化を誇れる民族、国家をめざしてもらいたい。それが一番の抑止力になるとも信じている。そういう未来の日本像を期待するのだが、さて、どうなることやら。
    HORMONE SEKINE OFFICIAL SITE | comments(0) | trackbacks(0) |
    <<ゴーマンかましてヨカない日本(前回に続く) | 暴走する米国防総省と議論が出来ない日本人 >>