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    • Contemporary Art 2.012展
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  • 【続き その3】デカルトとスピノザ的世界観
    前回から続く。あいかわらずユルユルと長い文章になっちゃいました、、、

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    パフォ−マンス3.20 Photo by United Cafe

    17世紀からヨーロッパ文明は、「われ思う、ゆえに我あり」のセリフで有名な、デカルト的思想が、知識人や権威者の脳みその化学変化を、支配することとなった(人間の思考や肉体などすべて、化学反応の結果と、安富先生は言う)。

    またデカルトは、自然はすべて数式によって、分析し説明できると唱え、これが後の科学の発展に大きく影響した。

    しかし、300年ほどたって、どうもデカルト的考え方では、やっていけないんじゃないのか、と感じ、言いはじめたのが、ポストモダンで、それは、第二次大戦など、世の中が、あまりにも悲惨な結果が続いたことにも、起因するのは周知の通り。

    スピノザの思想は、それでも奔流に埋もれ去るようなことはなく、ニーチェ、ハイデカーなど現象学者やマルクス、ドゥルーズなどポストモダニズムの思想家たちなど、かなり影響を与えて続けた。

    ヒットラーだって、自分の信じる平和を望んで、ホロコーストを生み、戦争をしたのだ。それがうまくいかなきゃ、誰だって考える。アメリカだけが、戦争に勝って、兵隊はたくさん死んだが、参戦国中、唯一、本土攻撃がなく、自国内の被害がなかった。だから、戦前まで、大きかった米国民の反戦意識は失われ、頭に乗った。もしアメリカも、本土攻撃や市街戦などで、悲劇を味わえば、二度と戦争は起こそうとは思わなかったのではないか。

    同様に、放射能だって、広島長崎以外にはその恐ろしさを知ることができなかった。福島じゃあ、いまだ、汚染地域に、子供が暮らしていることは、あり得ないし、これを放置する政府・行政は犯罪者に等しいと思う。元慶大教授の藤田祐幸氏は、あの戦時中の軍隊ですら、児童疎開をさせているのに、今の政府は、それ以下だ、という厳しい意見すら出ている。

    日本の国民だって、直接、被災しない人たちにとっては、ある意味、911同時多発テロのようなニュース映像の情報でしかない。年間100ミリシーベルト以下は安全だ、みたいな話だってあるし、ある意味正しいところもある。

    しかし、低線量被ばく、内部被ばくとか、臨床例がないのだから、安全とは言えない。ていうか、こんなにもわからない核物質を数式計算だけで、扱おうとしたのが、そもそもが人間のおごり。

    それがデカルトから続いた価値観だった。

    日常生活のすべてが、部分が集まって、全体になって、すべて数で表示され、前へ進むを善とした世界観。前にも書いたけど、デカルトやニュートンたちの世界は、分析的、線形的、原因結果的という。

    ところが、そのホイヘンスとかスピノザは、曲線なのだ。

    曲線は出発点に戻ってこれる。し、それを厭わない。全体的、総合的、非線形的な価値観だ。

    スピノザ的だと過去に戻ってもいいし、数が減ってもなんともない。そのシステムの全体がまずありきで、分解して、それぞれを考えることはできない。すべて総合的、全体的なバランスが、価値を生む。

    もし、ホイヘンスが振り子の原理の研究を大成させ、スピノザの哲学もキリスト教から認知されていたら、いまの世界ってだいぶ変わっていたと思う。

    たぶん、宇宙がビックバンで生まれたこととは、ならなかっただろうし、交通網も発達せず、違う意識と価値観の文明が、発展していたことだろう。

    たしかに、元素から記号で表すことができて、この世界に起こるすべての事象は、化学式で言い表すことができる。というより言い表せないと気が済まない。それが科学と進歩。

    必死に、アートだ! 感動だ! 現代美術は文脈だ〜! 愛と安心のメッセンジャーあおひと君だぁ〜って、大声叫んだところで、所詮、化学反応が引き起こした結果です。その化学反応を再現できれば、ゴッホやレンブラントや、草間やよいやレイチェル・ホワイトリードの作品のような感動を引き起こせる。

    しかし、自分は、東洋思想的な、仏教とか古事記とか、そういう世界観にも影響されているから、しっくり来ない。

    すべて化学式で表せることが、事象のすべてとは、とうてい信じられない、何か違うものは絶対ある!

    どうなんだろう、デカルト的な西洋の人たちは、その「何かわからないけど、何かある」んじゃないか、という曖昧模糊な感覚はあるのだろうか?

    言葉の構造や語彙を見る限り、あまりなさそう、っていうか、そういう世界があることは、許せないし、認めないのかもしれない。(自分のかってな想像です。だって絶対、他人のことは認識できない)

    しかし、自分たち東洋的、仏教的な感覚だと、わからなくていい。そのままでも許せる。ま〜いいっか、仕方ない、と言いながら、大自然の驚異とか、生命の神秘ってスゴ〜イ!とそのまま生で感じることができる。

    だから、日本の美術って、いまだキレイで繊細で大自然のモチーフの具象的なものが、好まれ受け入れられる。

    かたやデカルト現代アートは文脈です!分析です!

    今、世界でおこっている民族・宗教対立、自主独立議論、新自由主義や関所ニズムなど、いろいろな齟齬がおこるのは、そんな2つの価値観のバランスが、スピノザ系化学変化が、デカルト系を凌駕してきている結果なのだ。

    日本人も含め、東洋思想にも似た、スピノザ人たちは、全体的、総括的な総和に大事を置き、そこに安心を見いだす。

    日本人の特徴の、調和や和を尊ぶ、儒教思想などなど、いい面ばかりではなく、差別を生んだり、村八分とか招いてしまうけどね。

    デカルト人たちは、分解できる世界、増える数字、広がる領土、数式で表せる世界に、安心を感じる。

    だったら、デカルトとスピノザを同じ壁に掛けておけば、うまく調和するかもしれない?!

    自分たち日本人が使っている言葉をみても、たとえば、「のようなもの、みたい、なんか、ていうか〜」とはっきり断定しない言い方が増えている。

    それは、仲間はずれにされないように、かつ間違いだと指摘されないように、責任回避の結果とも言えるけど、むしろ無意識に、調和の方向に向かっている現象のようにも思える。

    人類は、スピノザ的・全体的・自然調和的な世界に向っていると思いたい。

    でも最後に、ヤケになったデカルト人たちが、全部、壊してしまう可能性もあるから、どうなるかはわからない。

    だから今は、地面も含めて、みんなで、調和するように、一生懸命、揺れているしかないのかな、、、汗。

    でも、振り子の原理を考えると、パラレルワールドの信憑性が増してきた。

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    パフォ−マンス3.20 Photo by United Cafe
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