新国立競技場建設現場(2018年2月12日)
ピョンチャン冬期オリンピックが始まった。
今回も、メダルノルマに日本選手は、圧し潰されるノルマリンピック!
2年後の東京オリンピックではどうなることやら、、、、
選手たちにとっては、想像を絶するプレッシャーなのだろう。
というか北朝鮮と変わらない全体国家日本のマスメディアの所業だから仕方ない。
だからメダルなんて気にせず、高梨沙羅ちゃん、伊藤有希ちゃん、小平奈緒ちゃん、高木姉妹がんばれ〜〜〜〜って!
ところで、
『生のいっさいは、趣味と嗜好をめぐる争いだ』とニーチェは言った。
フランスの詩人・小説家ポール・ヴァレリーは『真理は表層にあって深淵にはない』と。
そのいわんとするところは、人間偉そうなことを言ってても、その瞬間、瞬間は、やりたい、欲しい、好きだ嫌いだという趣味嗜好の判断を基準に、行動を選んで生きているということなのだ。
(今の安倍晋三、ドナルドダッグ・トランプをみてて、ほんとうに言い当てているなぁ〜)
人間は、そうやって生きてきながら、神や平和や愛が、平等や公正さや自由が、さも存在するかのごとく語っているのだ。
だからこそ、人間個人に権力を集中させてはならない。
だからこそ、憲法と法律が、集団社会では必要なのだ。
ニーチェのフレーズは、『ツァラトストラはかく語りき』(1885年)の『崇高な者たちについて』の章に出てくる。
ニーチェは哲学という学問では、真は見つけられないと悟り、感動を呼ぶ詩(散文)だったらそれに至れると思い、『ツァラトストラはかく語りき』を書いたということを聞いた。
なぜなら哲学は、言葉を屈指して、真理・真実(これもあいまいな意味だが)に迫る学問だが、言葉はとても不正確な道具だと気づいたからだ。
言葉の意味は、人によっても、国によっても、その個人の教育によっても微妙に意味合いが変わってしまう。
ニーチェは言葉では、正確で正しい帰結は得られないと悲観した。(神の道具は、使えなかったのだ。それは自分自身も否定することになってしまい、最後は狂ってしまった)
そんなニーチェでも、美に感動したとき、真のなにかを感じることができたのだろう。
だから散文で、哲学を試みたのだ。
新国立競技場建設現場(2018年2月12日)
ニーチェ話のネタ元でもある哲学者中島義道氏は、
「私の核心をなすのは、思考でも遺志でもなく『感受性』すなわち『私がいる』という得体のしれない感じなのですから」
と書いていた(
東洋経済オンライン18/1/13 )
『私がいる』=生きるって何だろう?
自分は誰だ? なんで自分が自分なんだ?
年をとれば、とるほど、この疑問が解決するどころか、答えがどんどんと遠のいていく気がする。
ところで、すでにアメリカの株の取引の80〜90%は、AI(人工知能)の判断でやっているという。
以前は、300人ものトレーダーがいた投資会社も、今は2人で回しているところもあるという。
先週、株の急落があったが、AIの判断が招いたと、チーフ・ストラテジー・アナリスト?という大仰な肩書きのついたおじさんがある番組で話していた。
だから景気が悪いのではないと、胸をはっていた。
てか、AIが株の取引をして稼いだお金が、人間の報酬となり、豪邸に住み、美味しいものに不自由がなく、かたや貧困が原因で、死んでいく人も大勢いることはおかしすぎる!
宗教家は、これにどう答えるのだろう?
とにかく近い将来、人間は、趣味嗜好で判断しないAIに支配されるようになることは目に見えている。
やっぱり映画じゃなけど、人間はいなくなって、最後は、AIにとって代わるのだろうな。
何回も言うけど、感動=自分の存在証明なのは、明らかだ。
自分は現代美術で、存在証明を得ることができた!
感謝、感謝〜ブラボーファインアート!
しかし、存在証明は、けっしてお金を生んではくれない、、、涙
新国立競技場建設現場(2018年2月12日)