ドローイング・色鉛筆 36cmx25cm 2018年
とても示唆に富んでいる元文科省前川喜平氏の話があった。
---以下,引用。
前川:(これから導入される)道徳の教科書に載っている話に「手品師の話」というのがあります。こんな話です。
腕は悪くはないのだけれども売れない手品師がいて、いつかは大劇場で沢山のお客さんの前で演じたいと思っていた。ある日、道を歩いていると、寂しそうにしている少年に出会った。彼は父親が亡くなり、母親が働きに出ていて、一人ぼっちだという。手品師は少年を喜ばせてあげようと手品を見せたら、その子がすごく喜んだ。「明日も見せてくれる?」と言うので「ああ、いいとも」と約束したわけです。
ところがその日、家に帰ってみると、電話がかかってきた。
「明日、大劇場で手品をやってほしい。明日出る予定の芸人が病気になって、突然出られなくなった」と。手品師にビッグチャンスが訪れた。
でも劇場に行けば、子供とした約束が果せなくなってしまう。そういうジレンマを抱えた手品師は、劇場に行くのを断って少年の元に行き、たった一人のために手品をする。
こういう話なのです。「約束を破らなかった手品師は、誠実ですばらしい人ですね」という話として紹介されているのです。しかし、本当にこれでいいのですか?
この前、名古屋市の中学校で私が講演をする前に、校長先生がこの手品師の話をしたのです。その校長先生は電話がかかってきた場面で話を止め、生徒の意見を聞きました。そうしたら生徒たちの意見は「劇場に行く」と「約束を守る」という意見にわかれたのです。
その後、議論をしていったら「その少年を劇場に連れていけばいいじゃないか」という意見も出てきた。そうやって議論をすることが大切なんです。先生が最後まで読んでしまって、生徒が「約束を守ることが正しい」ということだけを覚えてしまうのは良くない。
安倍政権による「道徳の教科化」はここがダメ! 前川氏、安倍首相の「お膝元」で教育改革を批判 https://hbol.jp/165077 2018年05月05日 <取材・文・撮影/横田一> HARBOR BUSINESS Online
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「道徳」は、今年4月から正式な教科として成績が付けられるそうだ。ただし5段階などの数値ではなく記述式という。
どう見ても、日本会議や安倍政権の目指す世界観から生まれた政策のひとつだろ。
またこんな例も。
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小学6年の教材「星野君の二塁打」
バッターボックスに立った星野君に、監督が出したのはバントのサイン。
しかし、打てそうな予感がして反射的にバットを振り、打球は伸びて二塁打となる。
この一打がチームを勝利に導き、選手権大会出場を決めた。
だが翌日、監督は選手を集めて重々しい口調で語り始める。
チームの作戦として決めたことは絶対に守ってほしいという監督と選手間の約束を持ち出し、みんなの前で星野君の行動を咎める。
「いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ」「ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ」などと語り、星野君の大会への出場禁止を告げるシーンが展開する。
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いやはや、マジかよ。こんなの教えられて、評価されるかと思うと世も末だ。これじゃあイノベーションなんて生まれない。
道徳を教える先生たちもたいへんだ。
うるさい親たちが、なにかにつけ、文句を言ったり、先生は、右だ左だとツイッターで書きまくりそうだ。
ネトウヨもパヨクも、それを今か今かと待ち受けているのだろう。
どうみても、善意という言葉に隠した洗脳工作なのは明らかだ。戦前の学校を見ても明らかだ。
その後、議論をしていったら「その少年を劇場に連れていけばいいじゃないか」という意見も出てきた。そうやって議論をすることが大切なんです。先生が最後まで読んでしまって、生徒が「約束を守ることが正しい」ということだけを覚えてしまうのは良くない。
まさにおっしゃるとおり。
正しい答えはひとつじゃないのだ。
昔、TVコマーシャルで、イギリス?の算数のテストを紹介、
○+○=10
○ - ○=5
の「○」の中を答える算数のテストだった。
つまり○のなかは、ひとつじゃない。
日本だと
5+5=○
10 - 5 =○
というテストで答えはひとつしかない。
こういう教育で育つと、自分は正しいことしか教えない先生に教えられたから正しいので、絶対で、それが否定されるのは民主主義じゃないというようになる。
新国立競技場建築現場。GWで現場もお休み(2018年5月1日)
前川さんのいうように、賛否両論、お互いの意見を出して、意見を擦り合わしてなんとか不満を減らして、国や団体、組織を運営していくのが、民主主義なのだ。
それが右も左の人たちも、我が思いを完全に成し遂げられないと、NOと突き放すばかり。
反対派は、相手を許容できない。
それじゃあ、いつまでたっても平行線だ。
前にも書いたことがあるけど、日本人は、自分の意見が否定されることにとても敏感だ(親や教育のせい?)。
自分の意見=自分の人格すべてと考えてしまっているかのようだ。
もちろん自分も日本人気質だから、自分の意見が否定されることにとても神経質になる。
つねに自分が否定されないように繕っている自分がいる。
それでも回りにいわせると、自分はかなり一般社会からは外れているようだが、かなり気にしているのだ(笑)
ドローイング・色鉛筆 36cmx25cm 2018年
でも欧米の人たちは、自分の意見が否定されることをそんなに気にしていない。
彼らを見て感じるのは、自分を信じると思うことの方が、大切だということだ。
自分が正しいのではなくて、自分を信じるということなのだ。
お互い、そういう考え同士が、意見を言い合うから、逆に議論で対立すればするほど、お互いをリスペクトする、つまり考えが一途であればあるほど、自分をしっかり持っているすごいヤツという評価になるようだ。
すると、前述した、「自分は正しいことしか教えない先生に教えられたから正しい」日本人は、なぜ相手と議論ができないのか? なぜ許容量がないのか?
それは、日本は儒教思想なのか、お上(上の地位)の人たちは、偉いから従わなければならない、という暗黙のルールが刷り込まれているからではないだろうか?
だから少しでも自分より上の地位や年齢、過去の実績に囚われてしまう。
まさに、独裁国家を夢見る輩たちが、道徳教育を推し進める訳だ。
だって一度でも、高い地位につけば、らくちんだ。年齢や地位や立場が下の者を、簡単に従わせることができる。まさに軍隊!
マジ、自分は、そういう戦前を引きづった世界観で育ったから、よくわかる。
自分だって、ゆとり教育で育った人たちや、礼儀を知らない若者たちや、自分の価値感と違う人間たちを、その小さい頃、刷り込まれた価値感と照らし合わせて批判する狭い心も持っているのは否定できない。
前にも書いたけど米ドラマ「スーツ」では、下っ端だろうが、部下だろうが、自分の意見を上司だろうが、気にせずにちゃんという。
言われた上司は、ダメな意見には、しっかり理由を付けて、というより「これが正しい」と強引に却下する。
それでも食い下がる部下の意見が、ある程度、理解に値すると思うと、手のひらを返して認めたりもする。
もちろんドラマだから、事実とは異なるのだろうが、とにかく欧米の自己中バトルは、日本のあうんの呼吸に慣れている自分にとっては異次元だ。
日本は、いまだ、あうんの呼吸が賛美される社会のようだ。忖度しかり。
それでうまくいくのだったらいいが、気がつけば、日本の人心は内向きになって、ガラパゴス化はどんどん進み、キャッシュレス、ブロックチェーン、自然エネルギー、EV、ITすべてに世界から遅れをとっているのではないだろうか?
それにこのままだとどんどん引き離されることは目に見えている。
日本の後進国入はそれほど先ではないだろう。今は、かろうじて、過去の栄光とGDPの総量だけで、先進国の末席に座ることが許されているのではないだろうか。
もちろん、後進国でもいいじゃないか、という意見だってあるし、儒教思想のように上を敬う心がいちばん、という意見もいい。
問題は、目的によるということだ。
例えば、国という組織が、繁栄するために、今の世界の動きに照らしたら、どうなのだろうか?
つまり、その多様な意見の集約と前へ進めるのが政治家のお仕事だと思うのです。
新国立競技場建築現場。GWで現場もお休み(2018年5月1日)