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    • Contemporary Art 2.012展
      記事掲載
















  • 哀悼 嶋本昭三
    京都教育大学名誉教授で現代美術家の嶋本昭三さんが亡くなった。

    享年85歳。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

    嶋本氏は戦後まもなく吉原治良が中心になってはじめた具体(美術協会)の発足メンバーの1人で、「具体」という名を考えた人でもある。

    嶋本氏とは若い頃、東京都美術館の公募展「AU」(Art Unidentified、嶋本昭三主宰)に出品したことで知遇を得た。

    その頃の自分はヨーロッパ帰りで右も左も上もわからず、知っていたのは下の生活だけだった。

    留学帰りが華々しく優遇され活躍できるなんてMBAやドクター取得のアメリカ帰りくらいだろう。

    自分はイタリアのペルージャ外人大学の最上級コースに通ったが、最後の修士試験は受けずに修学証明をもらっただけの日本の教育規格じゃ高卒だ。

    それよりも滞欧中、アートの世界に目覚めてしまいペルージャの貸画廊で個展をやって、帰国してからもアート活動を続けていた。

    それで見つけたのがAU展だった。無審査無規格な、昔の読売アンデパンダン展みたいなヤツだったので、嶋本昭三主宰なんてまったく知らずに出品。

    したら年間賞受賞。兵庫県西宮にある嶋本先生が運営するアートスペースで個展をやらせてくれたのだ。

    そのAU展での受賞作は幅90センチ、長さ25メートルくらいのキャンバス布地に描いた作品。まあ巨大絵巻物。

    当時の自分の振り返ると、「誰にも媚びず何も学ばず何も恐れず何も欲しない」とても純真で素晴らしい精神だったなぁ。。。。笑

    今じゃ、媚び砂漠で雑学詰め込みまくって明日の生活にビビリまくったシケモク拾いの河原乞食だ。

    (内なる声)うわっ!ここまで自虐的にならなくてもいいのに、、、
    (もう一人の内なる声)本心じゃないって。同情を買っているんだよ!
    (内なる声)そうか。でもほんと自虐的だ

    それで、西宮のアートスペースで個展をやって、先生のアトリエを見せてもらったり、AUメンバーと知り合ったり、とてもよくしてもらった。荒木さん、橋本さんとか元気かな。

    ところが当時の自分は具体とか嶋本氏のアートの方向性にイマイチ、ピンと来なかったのだ。これもご縁だと思う。残念だけど。

    ちなみに吉原治良のモットー「人と違うことをしろ」「物まねをするな」「オリジナルを追求しろ」。嶋本氏は「われわれの精神が自由であるという証を具体的に提示したい」と命名、具体美術協会が1954年に発足した。

    具体は近年、世界で再評価を受けているが、とにかくメチャクチャなグループだ。

    アートに興味のない人たちにとっては、たとえば嶋本先生の大砲で描くアートとか泥んこ1人プロレスのように足で制作する白髪一雄とか、おっぱいに絆創膏をはって外を歩いていた山崎つる子とか、今だったらまだわかるが、戦後間もない日本での話なのだ。

    具体グループ解散後も、その精神を嶋本氏は受け継ぎ、84年当時でも嶋本氏たちは高所クレーンでぶら下がるアートとかわけのわからないことばかり。

    「AUの論理」という自著を頂いたが、今あらためて嶋本ワールドや具体の目ざしていた思想の偉大さと斬新さに感動する。

    具体に関しては、アンフォルメルの模倣だ、とか賛否両論はあるし、フランスの批評家ミシェル・タピエが見つけなかったら今のようには残っていなかったとも言われる。

    でもそれは偶然ではなくて、作品から放たれたエネルギーが必然的にタピエやアラン・カプローを引き寄せ、世界のアートシーンにその業績を刻み込んだのだと自分は信じている。

    どんなに無名であっても、隔離された環境にその作品や行為があっても、人を感動させる作品や価値・意味のある作品は、人を呼び寄せ残っていくのだと思う。

    裏を返せば、今自分のいる立ち位置は、そういう作品を制作できていないからだ、とも納得している。

    ところで「AUの論理」(嶋本昭三著 1980)から、引用すると、

    ーーーーー下記、P2より引用ーーーーーーー

    未確認への行為の論理

     1956年ミシェルタピエは我々具体グループの仕事に会って、彼の著「激情の明証」に”芸術の現象学は傑作を俟(ま)ってはじまる”と称した。現代芸術は美術グループによって傑作が生まれることはないと信じていたが、具体グループの作為を見て美術倫理の空しさを悟ったという。傑作誕生の論理も、傑作が生まれて後にはじめて定理づけられるものであって論理が先にあって傑作が生まれることは曽て無いのである。〜中略〜
     製作者は知的労働者ではない。ART UNIDENTIFIEDの論理は行為の果に時間性に沿って感じとれる美的体験である。

    以上、引用終わり。太字、()は加筆。

    ところで嶋本氏は、障害者アートなどの慈善活動にも積極的にかかわっていた。それは、具体美術を見るように、自由な精神を尊ぶ創作行為が、多大に関連していることによる。

    敗戦当時、精神を病んでいた子どもたちは多かった。現在も別の意味で病んでいる人が増えているが、とにかく嶋本氏はそういった子どもや人たちのなかに、芸術性を見て取っていたのだ。

    たとえば嶋本氏は、「軽薄のすぐとなりに芸術がある」(精神異常が軽薄という意味ではない)と言い、(P20より引用)「具体の説明をするのに、現在有名になっている作家や美術館におさまっている具体の作品をとりあげて解説するのは、当を得ていない。
     具体は、もともと美術解説者のとりあげ方に抵抗を感じ美術館に納まりかえっている作品に反撥する連中によって、はじめられた運動である。」といいとてもスゴイ作家を紹介している。

     金木義男という作家は、二枚の絵を合わせて釘で打ち付け「見せヘン」と書いた。チョーク箱の裏がキレイと詩を書いて嶋本氏に興味を抱かせた、友原康博氏。彼の中学の時の詩がのっていて、自分も大好きなので掲載する。P21

    松眼伝理衆
    衆心は やみに まじって ぬん

    敬基の 目に もみと ぬん
      伝   伏
    伝状の 納目は きびしい
    人間の おもしろさを 乳ぶく
      伝   伏
    伝状を かざしたら
    宝見の 霜を
    彩ざやかに 血に 変え
    何悦の しょうこと してしまえり
    人間の 肝悦から んもにりぬ 艶

    何とも言えない詩だ。こういう世界は書こうとしても書けるモノではない。

    ちなみに彼は学校のテストには、すべてこういった詩を書いていたそうだ。また一緒に歩いていて、水たまりがあると、ペシャっとそこにうつぶせになり、先生もやって見ろ、と言う。できないと「先生は、世間体を気にしすぎる」「自己防衛本能が強すぎる」と言った。

    あの村上隆がパロッたフスマ50枚を突き破った村上三郎、鷲見康夫のゴミに仕立てた作品、元永定正の煙だけの作品、金山明のラジコンカーから絵の具がでるようにし、走り回させて描いた作品、もちろん嶋本氏の大砲絵画、1000枚のレールの写真作品、2つの映画を同時にひとつのスクリーンで上演、メールアートなどとにかくギネスにのるか、人にできないこと=作品っていう感じだ。

    今のアイデアばかりを追い求める現代アートの元ネタのほとんどが、見つけられるといっても過言ではない。

    人間なんて知能指数とか学歴とか血統の差で、考えることや能力に大差はないと思う。

    合掌

    写真:「AUの論理」嶋本昭三著 1980
    A069.jpg
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    エネルギーと死
    温暖化の冬は暖かくないのか?!

    野菜がメチャクチャ高い。ツライぞ。

    野菜チップスが人気らしいが、まだ試食していない。

    だから暖房とか、ちょっと油断するとゲゲゲっ?!の電気代になる。

    なので脱原発派として、自分の家も再生可能エネルギーにシフトした。

    といってもソーラーパネルとかじゃないヨ。

    ダンベル発電。

    寒くなったら筋トレするのだ!

    あまり持続しないからマメに発電しなければならないのがちょっとたいへんだけど。

    それにムリしすぎると発電機(筋肉)を壊してしまうから、なるべく軽めのウエイトで回数を多くする。

    そんなふうに陽が出ている時間帯は、再生可能エネルギーで暖房だぁ!!!

    ってなことで昨年、恐ろしいくらいに痩せたのが、かなり復活。

    自分にとってパフォーマンス用バディの維持も兼ねているから一石二鳥。

    筋肉記憶って言うのがあるらしく、一回鍛えられた筋肉は落ちるのも早いが再復活も早い。

    世界中、たいへんだ。アルジェリアの悲劇は青天の霹靂。

    災禍に見舞われた方々の、ご冥福をお祈り申し上げます。

    マリもシリア内戦はいまだ泥沼。そこに北朝鮮の核武装。

    世界中、無駄な死や争いがなくなることはない。

    つまり人間は、とても好戦的なのだ。

    アメリカの銃所持禁止令は無理そうだ。

    銃はいまだ西部劇の開拓魂=自由のシンボルだ。

    もし日本での銃所持が、アメリカ並みに簡単だったら殺人はメチャ多そうだ。

    きっとアメリカの比ではないと思う。

    自分だって、とりあえずあの姑息改革なKとTには、マグナム弾をぶっ放したい。

    そう思うとアメリカ人は日本人より我慢強い。

    というか、海外に住んだことのある人からよく聞くのは、

    見た目より欧米人は臆病らしい。

    ガタイのデカさと白人優越性がすり込まれているから錯覚しているのだ。

    日本人に限って言えば、あまり死にはこだわりがない。

    欧米文化、キリスト教文化は死生観に敏感だ。

    ダミアン・ハーストは何億円もするスカル・オブジェを作っている。

    欧米アートでエロスとタナトス(愛欲と死)はモチーフとしては外せない。

    日本のアートでは、基本的に心地よいものでないと、需要がないので好まれない。

    だから描かれない。

    ところで奈良時代くらいから、僧の修行で使ったという九相図という仏教画がある。

    それは小野小町みたいな絶世の美女?が死んで朽ち果てていく様子を描いた9枚綴りのイラストだ。

    今は美女でも、死んだら醜い姿になって朽ちていく、と修行僧たちはそれを見ながら煩悩を追い払った。

    獣が美女の腐肉を食らい、内臓がぐじゅぐじゅに飛び出し、ハエや虫がたかって、白骨化していく過去の美女。

    最近では、日本画家の松井冬子がそれを部分的に引用しているので、少しは知られているかもしれない。

    しかし、国という概念は必要であろうか? 

    もし国というモノが存在しなかったら、戦争も起こらないのだろうか? 

    それとも紛争という形で存在するのか? 

    九相図ではないが、死んで朽ち果てるのはいいが、

    生まれたときはすでに日本人という国籍を背負っていることに、

    それが万世一系ではないが、親がそうだからって、

    思想的にも思考的にも国の束縛から逃れられないことは、よく考えると、とても不思議だ。
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    自主独立はできない
    スランプかなぁ、ブログを書く気がしない。原稿書きのお仕事は年末も休みなくやっているが、なんか虚無感に包まれている。それが総選挙から来たのか、不景気だからなのか、単なるバイオリズムの問題か。

    現代アートとはなにか?そんな自問自答で今年も終わるのだろう。 

    最近、こぞって参加している現代アートの勉強会でいろいろな意見に出会い、むしろ解けつつある疑問が、ドンドンこんがらがっていく。

    結局、欧米キリスト教的、人間中心主義文化の元で発達してきたアートと、日本で言うアートは別物。昔、ヤクルトにボブ・ホーナーというメジャーリーガーがやってきて、デビュー戦で3ホーマー、2試合目に2ホーマー(うろ覚え)と叩きだし、あっという間にホームランバッターで大活躍。

    しかし「日本は野球、ベースボールではない」と名言を吐いて一年で帰国。現代アートも、欧米と日本では、言葉は同じかもしれないが、やっていることと求めている内容が違うのだ。

    話しが飛んだが、自分はこの世界をどう見るか?!どう思想しているか、を問うのが現代美術だと思う。

    それで、率先して意見を言う、自分という存在そのものが、物議を巻き起こしてきた、とても重要な中心点なのだ。

    つまり自分とはいったい何?ここはどこ?そのとらえどころによって、生まれてくる表現についても多様化するからで、そこから紐解き未来の理想的社会へつながっていく希望を指し示すのが現代アートの存在意義だと思っている。

    だから最先端現代アートで展開される世界は、社会における個人的欲望の究極的追求とも受け取れるのだ。そして、それが成り立たないのが日本の現代美術の特異点であり、欧米の文脈に入り込めない原因なのだ。

    最近、さかんに日本人、独立、自立、自主、愛国者、右翼、ネトウヨ、と精神性にかかわる言葉をよく耳にする。

    ちなみに「精神」という言葉のなかには神がいる

    英語だとマインド、スピリッツ、メンタルだが、なんか違う感じがする。英語だと、精神は、より物質的で私的なイメージだ。日本語の精神は、より信仰的でピュアでパブリックな印象だ。

    裏を返せば神が司っている心が精神なのかもしれない。つまり日本人は個人的な精神はない。それは神のモノ。だから、精神とは、神(他者)に従っていることが前提条件なのだ。たとえばキリスト教は、自分がいて神がいて両者の契約によってその関係性は成り立つ。つまりそこでは人間の自己(自立)は存在し、認められている。

    しかし、日本人は生まれたときから、親に言い聞かされる前から、すでに神のシモーヌなのだ(プラトニズムっぽいが)。ここでいう神は、ヤハウエではなくヤオロズの神。だから人を司っている神は、自分で客観的には認識できない。だって自意識はひとりの神なのだ。だから物事を深く考えない。考える必要がない。

    中村雄二郎とか有識者たちがよく言うように、日本人の先天的なスノッブ性やエリート主義も、そのあたりに起因しているかもしれない。私たちにも神が宿っているからエライのよん!神の流れに身を任せ〜♪言葉も神に失礼の無いように、つねに敬語が常態されているし。

    英語で心はマインドだし、ハートとも言うのだろうが、日本語だと、より個人的な気持ちの有り様を表している。つまり日本人には精神性は神のもので個人の精神性が心なのだ。心はすごくクローズドな概念だ。神の懐から少しだけ顔を出しているような感じ。なんか複雑な人種だ。

    古事記では天照大神は高天原で農耕をし、機織り工房もあったという。労働を喜ぶ神なのだ。そして5代のちに初代神武天皇即位となる。そして万世一系の天皇系譜が125代の現在まで連なっている。

    日本の民の精神は天皇に担保している。これが日本人の思想だ。自分の存在とか、その真実とか、本質は知る必要はないのだ。民は神の子孫であり、日本の民は、神の国作りによって創造された葦原の中つ国のあおひと草(葦)から生まれたのだ。

    すべて神の判断、神の仕業だから意義申し立てする余地はない。自立するという概念すら実感としてわからない。おそらく日本人の自主独立は、鎖国という物理的な手段を選ばない限りできないような気がする。

    だからアメリカに負け、軍事的征服のあとに連合国の植民地政策(心理的侵略侵攻)に移行しても、すんなり敗戦から頭を切り換え次の日から、農耕(労働)にいそしむことができたのではないだろうか。その上、極東の4つの大陸プレートのうえにのったくらげのような地盤だから、大地震と火山の脅威にさらされている自然への畏怖も、国民性に大きな影響を及ぼしていることは言わずもがな。

    結論は、基本的に日本人は自立して自らが協力して国家などを運営することは、欧米的思考システムでもっては実現できないと思う今日この頃です。

    前にも書いたが、最近のメルマガやブログ、マスコミの論調は自主独立、反対米追随、日本国家の自立みたいな路線がとても目立つが、なにをもって日本として、どこをゴールにしているのかが、よくわからない。

    江戸時代までの頃の、天皇がいて将軍がいたころの階級社会の日本をさしているのだろうか?それとも飛鳥、平安、平城の貴族封建制的な国家を目ざしているのだろうか?それとも世界が万世一系の民として統一的思想のなかで生きていこうとしているのか(大東亜共栄圏、八紘一宇はこの思想か)。それとも経済的に繁栄したバブリージャポンを目ざしているのだろうか?

    どのみち、よき日本を取り戻したとしても、9割以上の国民は所詮、農民とか貧民にしかなれない(江戸時代でも7%くらいしかサムライ階級はいなかった)。だったらこの世は刹那、おぼろ月夜のはかない夢と思っていても、くらげのように優柔不断でへらへらした民でも、それはそれで面白いとも思うのだ。いつまでたっても欧米キリスト教近代国家から見たら、前世紀的で姿の見えにくい特異な極東地域でもいいのではないか。

    前年の総選挙はそのような本能的な部分が働き、投票率の低さにつながったと思う。自主独立とか反対米追随に対する理想的日本のゴールが想像できず、むしろそれは理想ではないのだ。

    個人的な話になるが、現代アートはそのへんのくらげみたいな精神性と欧米のコンクリートや劣化ウランのような個人の理想のぶつかり合いから、村上隆や草間彌生の次の新たなアートワールドが生まれそうな気もする。

    しかしいろいろ探っていてなかなか光明は差し込まない。「心」が行き詰まっているのかもしれない。つまり欧米の現代美術の文脈のまな板ショーを望むなら、天皇制にまで言及しなければならない、と言うことなのだ。

    やっぱり天の岩屋のお祭り騒ぎが必要かな。っていうか自分でするしかないけど。。。
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    芸術は日本である—「アートワールド」byアーサー・ダントー
    コロンビア大哲学教授であり美術評論家アーサー・ダントー(1924年米国生まれ)の「アートワールド」(1964年刊)読書会に参加。

    この読書会は、インディペンデント・キューレター辻憲行氏が定期的に主催しているディープでコアな現代美術の勉強会で、たまに参加している。興味のある方はぜひ!

    参考サイト:芸術係数blog:http://gjks.org/

    もちろんかなり専門的なので、ある程度の現代アートや哲学の基礎を知っておかないと脳みそが沸騰する。自分も必死になって頭を冷やしつつ、耳をダンボにして食らいつく。

    しかし辻氏の丁寧な説明と、他の参加者の自由闊達な発言もあって、いつも楽しく参加させてもらっている。

    このアートワールドとは、ダントーが、現代アートとは何か?ということをパラダイム論的に提唱した芸術論。

    またパラダイム論とはめっちゃ複雑なので自分もよく理解していないが、フランクお〜ザッパに言うと、バラバラに点在していると思われる事象を、ひとつの枠組み(パラダイム=価値基準)で囲って、考えてみる。それに対する反論はべつの枠組みを作って比較する、みたいな思考方法?!

    それでヨーロッパでは、芸術に対する見方は時代によって変わってきていて、まずプラトンのいう、芸術とはモノをそっくりに真似て描く、その技術であり、それで制作された作品をさすという模倣論から始まった、と言う。

    ちなみに、ここでいう芸術とは、日本でよく言うアートや芸術とは別もの。欧米で芸術と言ったら現代美術、つまりその時代の先端芸術や思想のことを指す。

    そのプラトンはソクラテスの言葉を借りていろいろ書き残した。その中に想起説(イデア論)があるが、何で人間は何も知識がなく生まれてくるのに物事や言葉をあっという間に習得し、理解するのか。

    それはまずイデアという本物の世界?があって人は忘れていたにすぎず、生きていくうちにそれらを思い出す、ようなことを言った。そしてプラトンは、芸術はイデアを得た人間が作り出したモノを模倣したにすぎない、と捉えていた。

    これをダントーは「芸術は模倣である」というパラダイムでくくる。

    ところが科学技術や思想哲学の進歩があり、ルネサンスやフランス革命、産業革命による個人の意味とその確立、自由と平等、写真の発明などで芸術の存在意味も変わっていった。

    たとえば印象派絵画のようにそれまでは、物事を映す鏡にすぎなかった芸術が、アーティスト個人が捉える、見えるような世界を描くことに変わっていったのだ。そこに芸術の価値があり、存在意義が生じた。

    なぜならヨーロッパ文明の考え方では、人間個人に一番価値があり、それが世界の基準になり、発展進化することも一番大事だと思われているからだ。

    と同時に、それを言動で訴えていくこと(価値の共有)も義務に近いのだ。でないと、あなたは存在していない、と見なされる。

    ある意味、当たり前のことだけど、生きてると、家賃やらゴハンの心配で、それを忘れてしまう。とくに日本民族には、歴史的にみて、そういう言語による裏付け作業や個人という概念を、つきつめて考える環境に住んで来なかったので、あまりピンとこないかもしれない。

    これは以前、ブログにも書いたが、欧米語と日本語の文法構造を見てもよくわかる。あっちはSVO文法だ。好きだよ、では通じない。私は!あなたが!好きです!じゃないとダメなのだ。常に「私」が、トップにいる世界観

    話しがすっ飛んだが、これを「芸術は表現である」というパラダイムでくくった。

    で、それらを併記して、現代アートの可能性、アートか否かを探ってみる。

    たとえば、
    芸術は模倣であって、表現である。=フォービズム、印象派など
    芸術は模倣でなく、表現である。=抽象画
    芸術は模倣であって、表現でない。=スーパーリアリズム、古典絵画
    芸術は模倣でなく、表現でない。=コンセプチュアルアート、純粋芸術
    といった具合だ。

    では、これからはどんな可能性があるのか?と問うたとき、ダントーはワンフレーズそこに増やす、と言った。

    つまり、

    芸術は模倣である。
    芸術は表現である。
    芸術は○○である。

    と言うように述語を増やす、すると新たに芸術が生まれる、らしいし、これがアートワールドだ、と言ったのだ。すごく面白いし、わかりやすい。

    しかしアーティストを目ざす人種にとっては、あまりよくない。だって評論家が権力者になり、彼の付け足すワンフレーズいかんで、芸術か否かにもなるからだ。いわばアーティスト不要論にも通じる。

    っていうかある意味、当たっているかもかもエブリバディ、、、涙。

    しかし前にも述べたが、これはあくまでも人間中心主義の欧米的思考回路なのだ。そのうえ、芸術は新しい切り口、パラダイムを表示することだから、ダントーの芸術観にワンフレーズを加えてみても、それは模倣論になってしまう。

    それに日本には違った世界観がある。自然中心主義なのか、刹那論なのかはわからない。西田幾太郎は、それを絶対矛盾的自己同一と言ったが、その欧米の人間中心合理主義と、日本人の世界観をうまく合流させるのか、弁証法的に止揚させるのかはわからないが、欧米に劣らない芸術を見つけることができるかもしれない。

    芸術は模倣である。
    芸術は表現である。

    芸術は日本である?!
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    改革ニッポン
    謹賀新年。

    今年もよろしくお願いいたします。

    今年もウダウダ当たり前のことをいかにも大発見のように書き連ねていきたいと思っています。

    今日は、墓参りに行った。

    盆暮れの墓参は、なるべく欠かさないようにしている。

    お参りも終え、バーミアンで遅めのランチをとる。

    バーミアン・ランチも墓参りとセットで恒例になっている。

    席に着こうとするとテーブルに新聞がおいてある。先客がいるのか、と思い他の席をみるとやはり同じように新聞がおいてある。

    Y新聞だった。読みトク!キャンペーンだそうだ。ダジャレのレベルは自分と競うぐらい低い。

    自由にお持ち帰りください、と書いてあったが他の席にはそのままで、持ち帰る人はいないし、他の客も読んですらいない。

    売れないよな〜とうとう、大新聞社もここまでやるようになったか。

    本や雑誌も売れないと今日のヤフーニュースでもあった。
    http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130105-00000302-bjournal-bus_all

    ということで注文を頼んで、新聞をめくる。なんかねぇ、そんな大上段に言われてもねぇ、、、すぐ閉じた。

    ところでいま、紺谷典子さんの平成経済20年史を読んでいる。これは2008年に書かれた本で、リーマンショックや政権交代も大震災も前に書かれた日本の経済話だ。(紺谷典子著「平成経済20年史」幻冬舎新書 2008年)



    本書P25より引用

    「財政赤字はパンクだ」「年金も医療保険もパンクだ」と政府は国民を脅かしてきた。「これ以上、後世に負担を残してはならない」「国民負担の増加も、社会保障の削減も仕方ない」と言い続けた。
     だから国民はがまんした。言われるとおりに、保険料の引き上げにも、増税にも応じてきた。それなのになぜ、財政赤字はとまらないのか。社会保障の削減が果てしなく続くのか。計算が合わない、どこか変だ。

    ーーーーーーーーーーーーーーーー以上引用終わり

    おそらく何年たっても同じ文言が繰り返されるのだろう。本書の中では大蔵省、現財務省と結託したマスコミのファシズムを声高に指摘する。

    自己責任、責任説明、政治責任とは何度も聞くが、一度たりとも、行政責任と非難する声は聞かれない。

    紺谷さんも一時期、マスコミで引っ張りだこだったが、結局、大勢に意の沿わない発言で姿を消す。

    岩上安身、森田実、植草一秀、郷原信郎、上杉隆、リチャード・クーみなそうだ。ある時を境にマスメディアから消える。でもググるとみんな元気溌剌で、シンポジウムやったり本書いたりしている。

    紺谷さんもアジア記者クラブのレクチャーでマスコミと御用学者の酷さに怒っていた。ほとうにヒドイ!サイテーって絶叫していた。
    http://iwj.co.jp/wj/member/archives/1886

    本書P27より引用

    平成の20年は改革の20年だ。細川改革、橋本改革、小泉改革と、まさに改革のオンパレード。ずいぶんいろいろな改革を進めたのに、生活は一向に改善しない。(中略)改革は逆に、日本経済の低迷と、国民生活の不安の原因になったとしか思えない。
    ーーーーーーーーーーーーーーーー以上引用終わり

    それから民主党の税と社会保障の一体改革、今度は「危機突破内閣」だそうだ。次は突破改革かな。

    なんかよくわけわかんないけど。とっっっっか〜ん進め〜突破者!

    去年の総選挙をみてもわかるが、基本的に日本人は変化を好まないのだろう。むしろ現状を楽しむ創造力とタフさがあるように思える。

    よく言われる存在権も人権も意識は薄く、あるまま、いるがまま、やられるまま、、、でもそれでもいい。みんなが幸せならば。

    そんなふうに自己責任を無意識に操って、それよりも和を尊び、生そのものに感謝できる強い民族だと思う。

    日本の神話でも、小競り合い程度で大きな殺戮物語は出てこない。なんかおだやかな国作り物語で微笑ましい。

    しかし尖閣、竹島問題からか、急に右傾化が目立ちはじめている。戦争も辞さない、なんて酔った席で聞くこともあるくらいだ。

    日本なんか復旧中の福島原発に一発落とせば終わりだ。それか敦賀あたりの古い原発にミサイル打ち込めば地球規模で終わる。てか、電源供給絶ってしまえばいい。

    こんな強力な抑止力をもった国、他にないぞ。

    安倍政権は確かに右傾化していると言われるが、右翼は国=国民を護持する勢力・思想だ。だったら原発、TPP、増税はすぐに廃止だろ。違うのかな?!

    とにかく2013年も始まった。いい年を願うしかない。何人かの友人の新春の便りには、大きくなったよ〜!と愛する子どものことを喜んで報告してくれている。

    そんな子どもたちのためにも2013年もLOVE & PEACE!
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