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    • Contemporary Art 2.012展
      記事掲載
















  • マスメディアとツイッター
    結局、テレビなしの生活も10ヶ月ほど続いたが、挫折。

    今年も無事、野球シーズンがはじまり男女サッカー、オリンピックとスポーツ好きにとってはいかんしがたい。一番安い、そしてアナログ受像器でもまだ見られるIPTVを契約。

    青木が抜けたヤクルトも上田という若手が穴を埋めてくれそうだ!それにピッピーピッピーと突然、画面下にながれる緊急自信速報は、自分の自信のみなぎるタイミングを知らせてくれるので重宝する。

    ところでそんなTV再会の中で気になるのは番組とツイッターなどsnsとの連携だ。もちろん深夜になると、君のっ、ためにっ、僕は〜♪♪と延々と繰り返されるから、真新しいことではないのだが。

    恐らく、マスメディア的にはネットメディアは今が旬で影響力があると信じたくないけど信じはじめているのだろう。個人的意見や要望を反映するツイッターをはじめとするネット・オピニオンを取り上げることで、視聴者に対して番組の公正さと誠実さをアピールしようとする制作者側の本音がうかがえる。

    ブログやsnsなどネットメディアというものは、パスティーシュ(ゴッタ煮状態)で無編集が原則である。たとえ単語の変換ミスがあろうが内容が過激差別下品脅迫的であろうがチェックされないのである。それで炎上しても自己責任なのだ。もちろん過去2chの数々の事件から無政府状態ではなくなったが、現在でも中国のようにはならず、かろうじて自由な世界を保っている。(政府はなんとか規制しようと躍起になっているが)

    とにかくマスメディアは編集ありき、の世界なのだ。法律でもその不可侵編集権を認めている。だからどんなにツイッターの意見を流していたとしてもワンクッション人の手は介在してしまうのだ。その証拠にいまだかって誤字脱字で書かれたスレッドや放送禁止用語が羅列したものなど見たことがない。そのかわりわざとらしい絵文字や流行語でカモフラージュ、ほとんどが優等生的な無難なスレばかりだ。ある意味ヤラセと同じだ。

    ここで危惧されることはネット世界を知らない人々がそのテレビ局の策略にハマッてしまうことだ。ネットの意見も取り入れているのだからマスメディアはやっぱり公正だ!と信じてしまうことなのだ。

    金融界を騒がした信用創造ではないが無編集という権威権力というフィルターを通さず直接、パブリックに投げ込める、という共同幻想がここまで成長した一因であることは疑う余地はないだろう。と、同時にネットも信用に値する、というパラダイム(価値観)が暗黙のうちに育まれたのだ。かつてEコマース市場がここまで成長するとは誰が信じていただろう。

    くそっ、今思うと数年前までネット平原には金鉱がたくさん埋まっていたと思うと後悔先に立たず!

    しかしネット社会民と非ネット社会民の情報格差は所得格差と同様、広がる一方だ。スマートフォンはその是正に若干は影響しているのだろうが、大元のメーカーが巨大になり体制側になってしまうことも懸念される。OSやサーバー上でのフィルタリングや監視も可能なのだから。今やクラウドだ。エシュロンみたいな検閲ソフトを外部に知られずクラウド内だけで運用することもできそうだ。

    以前、振り込めサギ多発によるATMの取引制限は、預金封鎖の口実ではないか?と書いたことがあったが、クラウドもある意味、情報封鎖を容易にする。とにかくネット社会の一番の特性は反中央主権で分散的なネットワークなのだ。クラウドはそれに逆行していると感じるのは悲観的すぎる?

    自分はウエッブをはじめたときの一番のカルチャーショックは、他人の日記がのぞける、と言うことだった。それまで日記というものは引き出しの一番奥に隠し一生涯、親にも見せないものと信じていたものだ。それがネットでは本屋の棚のように個人のナントカ日記が並び自由に読めちゃうのだ。

    もちろんフィクションも多いだろうし、すぐに飽きてしまうことも折り込み済みだ。そんなことよりも赤の他人の私情とダイレクトに接せられる現象に驚いたのだ。それらはスキャンされた手書き文字ではなくフォントというパソコン活字に変換され、見栄えが従来のマスメディアと似ていたことも多大に影響したのだと思う。プライベートとパブリックの差とはそんな些細な差にあったのかも知れない。

    この時点からマス(大衆)メディア幻想は終焉に向かう。かつては社会の木鐸、ペンは剣(権)より強し!国民の見方と味方だった絶大な信用を失っていく。数々の情報を中央制御室でどっかり腰を据えた権威のチェックを受けずして、かつより迅速に情報を受け取ることができる。これはまさにポストモダニズム社会の典型だ。

    ジョン・フィスクは「メディア問題」(1994)の中で「現実の二次的表象(事実の断面)を提供するのではなく、自らが媒介する現実に作用し、それを生み出す。〜 略〜 問題となる出来事はすべてメディア上の出来事である。メディアはレポートし報道するのではなく、今やニュースを生産しているのだ。」と看破する。

    つまりニュースや記事はたくさんあるすべてを吟味した結果で国民の重要性を検討し報道されていない、ということなのだ。極端に言ってしまうと遠い場所の取材など経費がかかる事件は取り上げず、安くつくニュースを選ぶことも自由裁量権のうちなのだ。かつて某テレビ局のお仕事をしていたころ、元報道局プロデューサーがニュース番組が一番金がかかる、と言ってたことを思い出す。

    ずっとネットでも話題になっている「政治と金」、「説明責任」と連呼しつづけていることは最たる実例だ。韓流ブームやKポップ問題も、彼らタレント側は局に出演料(放映料)を払っていると噂に聞く。だったら政局に不利な事件をマスメディアに制作してもらおう、制作費は官房機密費から払おう、となっていてもおかしくない。もはやそんなマスメディアは野ざらしになったフリーペーパーのごとく広告媒体だけというのが実態かもしれない。

    自分が学生の頃は朝日新聞の天声人語は国語や作文のお手本だった。ゲバゲバ90分は世界一のエンターテインメント番組だった。真っ赤な太陽で高校生活に憧れた。イレブンピーエムで大人の世界に憧れた。田中角栄の悪行にあきれ果て政治家不信を募らせた。

    でもみんなそれらが虚構だったのかと思うととても悲しい。少なくともマスメディアは生活に欠かせず役立っている。いまでも義心を持ち戦うマスメディア戦士がいることを信じて疑わない。

    これからは、見ない読まない信じない、が一番なのだろうがリテラシー(批評・判断能力)さえあれば逆にマスメディアは知的娯楽にもなる。つまり裏読みをして楽しむこともできるのだ。将棋のように捨て駒で王手する頭脳ゲームだ。

    楽しみ方のたとえだが、4月3日に襲った爆弾低気圧の日、国会では郵政改正法案が国会提出されている。しかし当日夜も翌日も低気圧のニュースで持ちきりになった。そして4月11日に衆院通過だ。と同時に北朝鮮ミサイル疑惑がトップを飾る。何という、なでしこジャパンびっくり!の華麗なパス回し。

    だいたい大物芸能人ネタや天候災害、大事件の裁判と重要法案がらみの政局の連動が、ここ長年の慣例だ。いまは原発のために木嶋被告が生死をかけてがんばっている。わかりやすいよね。こうなると裁判所と国会は重要法案と重大裁判が同日になるように示し合わせていると非難されても仕方ない。

    「新聞から日付を取り去ってしまうと、その記事はエキゾチックですばらしいシューレアリズムの詩となる」(マクルーハン+Eカーペンター著「マクルーハン理論」平凡社/大前正臣・後藤和彦訳)とは面白い喩えじゃないか。

    まあ、このぐらい余裕をもったほうがいいのかもしれない。

    君のっ♪ためにっ♪僕は〜死ねる〜っ♪
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    消費増税するのか?!
    海外では政治と女性の年齢は御法度とよく言われるが、やっぱりなんか変だよ日本の政治!

    とにかく当分、消費税は上げるな!

    2015年10月に10%に、その前の2014年4月に8%にするというが、3年なんてアっという間だ。とにかく参議院選前、菅前首相が増税議論を急に言い出したときは、目から水晶体が飛び出してしまった。

    ヘーゲルの著書「精神現象学」(1807年)という論文に「主奴論(しゅどろん)」(「主人と奴隷の弁証法」とも言う)というアランドロンみたいな有名な話がある。かのマルクスの先生でもあったヘーゲル。ドイツの知の巨人だ。

    とにかくヘーゲル先生は難解だそうで、(原典を読んだ訳ではないのであしからず)それがまた学者たちの射幸心をあおるのだろうか、再評価されているらしい。

    いろんな入門書などを参考にすると、中世まで主人(王)など権力者は奴隷を使って富を築いていた。権力があれば自由を手に入れられる。奴隷は労働にしばられ自由はない。しかしヘーゲルは弁証法という方法を使って主客逆転させる。

    それは奴隷は労働という行為で自然を知り自己を知る。そうすることで自由・自律を尊ぶヘーゲルの主張する自己を形成できるのだ。しかし主人(権力者)は命令して奴隷から搾取するが、決して自由・自律の形成はできない。ただ消費するだけなのだ。主人はそれを自由だと信じているが、実は自由を消失している。奴隷に依存していることに気づいていない。

    かたや奴隷は自由はないと悲観しながら実は自由と自律を獲得しているのだ。そしてそのことに気づくと一瞬にして立場が逆転する、という内容だ。(たとえは悪いかも知れないが戦時中、食材を生産できる農家が優位だったこともこれに似ているかも)

    たとえば消費税!もし10%になって困るのは低所得者や中小企業などの弱者なのだ。だって20万円くらいで1ヶ月生活している人は余計に1万円の出費になる。これって米20キロくらい買えるぞ!

    かたや輸出産業にかかわる大企業はウハウハだ!それは消費税還付の逃げ道が隠されている、と湖東京至氏(元静岡大教授)は指摘する。参照サイト:http://gendai.net/articles/view/syakai/136076

    少し長く引用すると・・・

    「消費税の最大の問題は、輸出企業への還付金制度です。外国人に日本の消費税を負担させるわけにはいかないという理屈で、国内の部品仕入れ段階などで発生した消費税を国が後で戻す仕組みのことです」

    消費税の税額は年間売上高から年間仕入れ高を差し引いた額に5%掛けて決まる。輸出分の税率はゼロだから、輸出割合が高いほど、仕入れ段階の税額と還付金の逆転現象が起きるというわけだ。

    「例えば、ある企業の売り上げが国内で500億円、輸出で500億円だったとします。仮にトータルの仕入れ額が800億円だったとしましょう。その場合、 国内で販売した500億円の売り上げに対する税額は25億円、仕入れの税額は40億円となり、差し引き15億円が還付されることになるのです」

     つまり、本当は1000億円の売り上げがあるのに、500億円も低くなり、それでいて仕入れ額の800億円はそのままで計算されるというわけだ。

    「政府の予算書を見ると、こうした還付金は約3兆円(10年度)あり、消費税の総額(約12兆5000億円)の約3割に上ります。仮に10%に引き上げられれば還付金は単純計算で6兆円にも達するのです」

    知ってた?!

    日本は輸出大国でここまで来たことは否めないが、あまりにも不公平感を生む。

    消費税は前ブログに書いたけど欧米のVAT(付加価値税)とは違う。食材や生活必需品にも一律まんべんなく10%かかる。生活保護でも病人でも関係なしだ。そのうえ新聞だけは非課税にするなんてことも聞こえ伝わる。

    これに限って主奴論を当てはめてると、今の主人は官僚・公務員(賃上げになるし恩給に還元される)・大企業従事者たちと一部富裕層だ。正確な人数はわからないが全国民の1割くらいではないか(1300万人。多い?!)。奴隷はいわずもがなその他の国民だ(1億人強)。

    消費税はモノを買わなければ発生しない。あと3年間で日本がかつてのバブル景気に戻るとは思えない。駆け込み需要や消費税改正にかかる事務処理や関係商品などによる一瞬の特需で安心してはダメだ。

    結局、社会保障と一体改革とかいいながら政府の出費はそれほど減っていない現状で、税収が飛躍的に増え年金などの財源が確保できる、とは誰が考えたって無理だろ?!と思うのだがいかがだろうか?

    ヘーゲル先生にいわせれば、消費税を払わなければならない大多数の奴隷の方が生殺与奪(せいさつよだつ)権があるのだ。

    貧乏画家たちよ!希望を持とう!明日は明るい!

    そういえば今日「郵政民営化法等の一部を改正する等の法律案」が衆議院を通過。これって株式売却を可能とする法案で売国計画もちゃくちゃく進行中だ。350兆円が野ざらしになるだよ!
    http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g17602004.htm
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    ギャラリーコエグジスト・トーキョー&アースプラス・ギャラリー
    先週土曜はギャラリーコエグジストのリニューアル・オープンだった。2年前、個展を開催したギャラリーだ。そのときは台東区の末広町と浅草橋の中間くらいにあった。

    この度、江東区木場の東京現代美術館そばに移転。倉庫を改装、前にも増して大きく立派になった。おそらくギャラリースペースが清澄白河の小山登美夫ギャラリーのメインホールくらいありそう。天井も高くとてもかっこいいホワイトキューブ(白い箱のようなスペースのこと。現代美術系ギャラリーのことを指す)に仕上がっている。

    2フロアーにわかれ1階はEARTH-Plus Gallery(アースプラス)とカフェ、2階は100平米のGallery COEXIST-TOKYO(コエグジスト・トーキョー)で、オシャレなギャラリーコンプレックスになっている。

    2階のギャラリーのこけら落としはフランス人の女性現代美術家レティシア・シュレッサー-ガムランさんの個展。彼女の作品はキャンバスに樹脂をベースにして描かれた抽象画。丸いモチーフでは顕微鏡をのぞいて中でうごめく極彩色の無機質な色の広がりを表現したシンプルかつビビッドな作品群。展覧会のタイトルは「原初の言葉」。

    レティシアさんもパリでギャラリーを経営するご主人と来日。お話しさせてもらったがご夫妻とも気さくで日本大好きフランス人だった。

    1階ではメディアミックス的活動をしているヘテロフォニーという若手グループが展示とパフォーマンスで構成。音楽、ファッション、現代美術、舞台などの作家が集まり今回の展覧会を演出する。

    自分は6月に個展を開催。去年スエーデンの中島由夫現代美術館も大きかったが、それよりも広いかもしれない。どうしても高さのある作品を発表したかったのでとても楽しみ。

    東西線木場駅から歩いて来たが、帰りは門前仲町をブラほるもん。

    人形町と似て富岡八幡宮の門前町だけあって街並みはよき江戸下町風情を残している。スカイツリーも完成し、これからこの界隈ももっとにぎわいそうだ。

    永代通り沿いにはドラッグストアーがなぜか多い。高齢者が多いせいなのかはわからない。そんな街並みに昔懐かしい純喫茶があったり、美味しそうな和菓子屋さんがあったりして幼い頃、育った神田を思い出し童心に戻る自分がいる。

    ふと通りかかった和菓子の伊勢屋の誘惑には勝てず、豆モチと塩大福を購入。いつもならスイーツは眺めるだけでツバを飲み込むだけで、あきらめているのだが、さすがに下町の風に背中をおされ一個づつ買ってしまう。純喫茶でクリームソーダでも飲みたかったが、すでに閉店。ここの商店街はだいたい9時くらいには閉まってしまうようだ。

    東西線門前仲町からもさほど遠くなさそう。ギャラリーまで10分くらいとのこと。木場駅からだと8分だからそれほど変わらない。ちなみに清澄白河からだと20分くらい。

    このあたりにもいろいろなギャラリースペースができているから、すぐにアート好きの散策コースに組み込まれそうだ。

    <Gallery INFORMATION>
    コエグジスト・トーキョー&アースプラスギャラリー
    open:11:00〜19:00(月曜休)
    住所:江東区木場3-18-17 TEL03-5809-9949
    http://www.coexist-tokyo.com/

    <1階スペース>
    ヘテロフォニー個展「颯爽的転回」4/7〜4/29
    イベント4/22 fijii collection A/W 2012 SHOW open:18:00〜 入場無料
    イベント4/29 fiClosing Party open:14:00〜 ¥1500(1ドリ付)

    <2階スペース>
    レティシア・シュレッサー・ガムラン個展「Primitive Language 原初の言葉」4/7〜4/29

    Coexist-tokyo01.JPG
    coexist-tokyo02.JPG
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    咲くっと日記
    一気に桜が咲いた!平年よりもっと遅れると思っていたがあたかかくなった途端、パッと咲いて散る、、、ふと、同期の桜なんて哀しい軍歌を思い出してしまう。

    とうとうツイッターのささやき具合で世の中の動向を探るようになってきた。テレビニュ−スではその集計結果を参考にしたりする。この前の春の嵐の報道では、首都圏で何時頃に帰宅する人たちが多かったか、ということをツイッターのささやきから集計調査している。

    世論調査っていうなんかきな臭い調査(視聴率も似たようなモン)がツイッター調査によると、、、とかになっちゃうんだろうか?書き込みバイトが増えそうだな。

    かたや2チャンネルを覚醒剤売買の書き込みを放置したことの違法性をとりあげ、法規制をかけられるように世論誘導の匂いプンプン。
    参考サイト:http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120307/crm12030707020003-n1.htm

    ポストモダンの後の流れだと言うように、コミュニケーション的転回の確たる証明になりそうだ。政府与党など権力側も、もうネット上の「愚衆の集合知」を無視できなくなっている。そんな人々をかつて小泉郵政選挙の時はB層とかいってバカにしていたモンだけどね。

    このところニーチェとかヘーゲルの超訳本が結構売れているらしいが、ニーチェの名著「ツアラトストラはこう言った」(水上英廣訳/岩波新書より)にガツンとくるフレーズがあった。

    「〜国家は善と悪についてあらゆることばを駆使して嘘をつく。国家が何を語っても、それはウソであり、国家が何を持っていようとも、それは盗んできたものだ。
    あまりにも多数の者が生まれてくる。余計な人間たちのために国家は発明されたのだ。〜」(上P110)

    ここまで言い切るニーチェ。でも言い得て妙というか当たってるジャン。120年前にすでに看破していたのだ。

    とにかく絶対規準があやふやになった現在(以前も書いたけど、それが結果のはっきりした自然科学崇拝につながってもいる)、集合知である「一般意志」が世の中を動かせるようになってきたことは確かだろう。

    当然、権力者たちもこの第4の力を利用しようといろいろ画策している。そのためにすぐに扱いやすいように法律という規制のアミをかけようとする。

    国民新党の亀井代表が解任されたり連合与党は民主党をはじめ、かつてフランス革命で旗振り役だったのに恐怖政治に突っ走ったロペスピエール率いるジャコバン党みたいな動きになっているジャン!

    ニーチェはまたこうも言っている。

    「人間らしい幸福を一瞬与えてくれるものは芸術しかない」

    いい言葉だなぁ、、、
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    東京アートフェアと代々木公園
    穏やかな天気に恵まれた日曜の午後、代々木公園をチャリ散歩。すごい人だかり。例年ならすでに満開近いはずのソメイヨシノには一輪の花も咲いていない。

    それでもたくさんの宴会でにぎわっていた。懸念していた補修工事もそれほど邪魔にはなっていなかった。NHK側の野外ホール周辺ではエコロジー系?のイベントでこちらも大盛況。フリマや出店にアース系や外人で大にぎわい。みんなの楽しそうで笑顔がヨカッタ、イイネ・クリック!

    やっぱり平和。とにかく平和。平和が一番!(パチンコメーカーではないです)

    土曜は銀座のとあるギャラリーに打合せにいき、その後、東京アートフェアを見る。

    どうなのかなぁ、東京アートフェア。

    悪くはないと思うがほとんどが無難な売れ筋的な絵が多くて物足りなさが残った。日本画の世界ではそういう売り絵のことを飯画(パンガ)というらしい。

    色のきれいな詩情あふれる抽象表現系、美少女&へたうまマンガ系、立体だとリアル&アニメ・フィギュア系、ちょこっと抽象画(カラーフィールド系)。全体的にみてブームのアニメ&ダーティリアリズム系より抽象画の方が売れている印象。(この傾向は2〜3年前から感じている)

    まあ、アートフェアだから頂点に達した作風が多くなるのは当然だけど、寂しいのはそれらの元ネタが読めてしまう。決してレベルは低くないと思うが、やっぱりテーマがたくましい骨太な作品が恋しい。

    土曜の段階では見た限りにおいて10万円以内がチラホラ売れている程度。もちろんリーマンショック前のあのアートバブルのようなプレ・レセプションでほとんど完売状態から考えると隔世の念。

    数年前一番高いときに買った人たちが、最近のゼロがひとつ取れたくらいの価格破壊に懲りてコレクターやめちゃうんじゃないかと余計な心配をしてしまう。自分は不幸中の幸い(笑)、最近になって少しづつ売れるようになったからその価格のブレが少なくてホッとしているけどネ。

    このアートフェアは出展料は安くないと聞く。これではギャラリストも大変だ。でも、一般客からも入場料2,000円もとるなんてどうなんだろ。せいぜい1,000円だろ。まあ主催者側にとっては、美術館とか見せる場所じゃなく絵を売るフェアだから、冷やかしの客で混み合うよりいいと思ったのだろうか。

    ところで土曜の午後、小さな台風並みの悪天候にかかわらず、銀座界隈、とても大きな増税反対デモ行進をやっていた。恐らく数万人規模だと思う。もちろんマスコミでそのニュースは目にしない。

    東浩紀氏の一般意志2.0でいうようにコミュニケーション的転回なのか、ポストモダニズムの影響なのか、脱中心・脱権力的ベクトルを、ご都合主義で解釈したかのように政治イデオロギーも政策もコロコロ変わってなんのための政党政治かわからない。消費増税なら自民党とも仲良くするとか支離滅裂。

    それに答えるかのように自民党石原幹事長が小沢氏を切れば、同意する可能性もあるなんて子供のケンカじゃないんだから。http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120401/stt12040119580004-n1.htm

    しかしヤフートップの編集は偏っているのではないか。さすがの孫氏も官僚に遠慮しているのかと勘ぐってしまう。そういえば震災100億円寄付はどうなったのだろう。

    最近、まさにこんな世相を反映した出来事があった。

    元経産官僚で官僚制度改革を標榜した古賀茂明氏がツイッターで、テレ朝ワイドスクランブルのレギュラーを降板させられた、とささやいたら大勢のフォロワーから局に苦情が入ったらしく、すぐさま降板撤回。「一人一人の力は小さくてもみんなで動けば世の中が変わる」http://blogos.com/article/34839/

    エコロジーイベントの一角でライブをしていたロックバンドが放射能問題を叫んでいたけど、たとえデモや市民運動など具体的な行動をとらなくても一人でも多くの人々が心に願うことだけでもきっと伝わる。

    いつまでも桜の宴のようにハッピーハッピー平和な世界が続くことを祈ってます〜♪

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    自分探しとポストモダニズム
    春だ!加速度がさらに加速度をつけたように時の流れは、ああ〜無情。でもこうやって毎日、無事でいられることに感謝しなくてはいけない、ありがとうございます!

    ・・・なんで自分は自分なんだ?

    なぜ自分以外の、たとえばトムハンクスとか小泉進次郎とか柳井会長に生まれて来なかったのだろう、、、

    しかし! 彼らも生まれたときは自分といっしょで赤ん坊の無名。いきなり有名人として生まれてくることはないから、この願いは無意味。結局そのあとの努力なんだよねぇ、、、汗。

    ずっと自分が持っていた疑問。それは自分の正体だ。「自分探し」とも言う。たとえば作品について「何がテーマなんですか?」って質問されると、躊躇(ちゅうちょ)なく、「自分を見つけるために表現しています。表現とは自分探しだと思っています」と胸はって答えたモンだ。

    でも〜!

    哲学なんか囓りはじめると、そんな回答が、赤坂見附じゃない、浅はかきわまりない、と感じるように。

    「自分探し」しているってことは自分が自分じゃない、って意味も含む。どうやって本当の自分じゃない自分が、本当の自分を探すことができるのか?

    今の自分はつまりあおひと君の代理人?つまり偽者?その偽あおひと君が本当の自分のウォンテッドみたいな人相書きを持っているのだ。じゃなければホントの自分かどうか最終確認できない。

    プラトンは、人はすべて真理(イデア)をすでに知っていて、忘れているだけだ、だからそれを学習して思い出すだけなのだ、と「想起説」をといた。(当時ギリシャ文明では魂の輪廻(りんね)が信じられていた。アカシックレコードの元ネタ)

    だとすると、ここでいう自分探しは成り立つ。つまり表現する(学習する)ことによって忘れていた本当の自分を思い出すのだ。さすがプラトン!

    で、今のところ自分は想起論者じゃないので「自分探し」と言わなくなった。現代美術に対して「感性や知覚の探求」と答えている。認識論風だ。乱暴な言い方だと、ニーチェのように「真実は自分が決める、神は死んだ!」となる。

    でもでも〜〜〜〜!

    リオタールが「白人男性によって形成された」大きな物語は終わった、といい(「ポストモダニズムの条件」1979年)、ポストモダニズムが70年代ごろからもてはやされる。それは二度の世界大戦やドイツ・ナチスの蛮行、共産主義やその冷戦などの反省から、これまでの権威主義や教条主義、啓蒙主義をすべて否定しようとする思想だ。

    そのかわりフェミニズムや世界多極化、ゲイや少数民族などのマイノリティの肯定などあらゆるアウトサイダー的価値を見いだし強調する。するとあら不思議、ニクソンショック(金本位の廃止)、共産主義崩壊、新自由主義の台頭、アート界をみればニューペインティング旋風が世界を駆けめぐる。日本をみればあっとう間にバブル経済になりオタクの公認、オカマ、NHのタレント化、などなどナンでもありすがわの世の中に!

    でもでもでも〜〜〜

    これがまた否定されつつある時代に突入した(そうだ)。

    その自分に対する認識も、実は自分自身がホントに「為(な)していること」ではない可能性もでてきた。いままで哲学的な問題と捉えられていた「存在」や「言語」の謎が最近の急激な脳科学や遺伝子工学などの発達で少しづつ解明されてきた。

    ガンや遺伝子病系は言わずもがな戦闘好きな戦士の遺伝子やら肥満遺伝子などなども発見され、アーティスト遺伝子が見つかるのも時間の問題だろう。ある意味、500年前のようなイタリア・ルネッサンス的科学万能時代の再来かもしれない。というのもポストモダンから見ると、そのような流れは至極とうぜんなのだ。

    例えば建築分野でもポストモダンはよく言われているが、それまで「住居とは住む機械だ」と言ったコルビジェに代表されるようにムダを排し機能性、合理性を追い求めていた近代建築を比べてみても明白だ。それは非対称性、脱中心などがキーワードになっている。

    何が言いたいかって? 

    つまりポストモダニズムの思想家たちが脱権威、脱中心と唱って目指した結果、思想・イデオロギーなど中心になって引っ張っていく強力な磁場がなくなったから、行き場のなくなった「知」が自然科学などに向かいはじめた。哲学とアプローチの仕方が似ていてゴール(目標)が見える自然科学(実証主義)によりどころを求めるようになったのではないだろうか。

    これから何を手本に、何を根拠にしていいのだろう? と思ってどっかの自己開発セミナーみたいに、自分を信じろ!ッて言うが易し行うが難し。人間って目的やゴールがないと急に無能になる。

    孫引きになるけどリオタールが面白いことを言っている。「ポストモダニズムとは何か」(スチュアート・シム編著・伊藤賢一訳/松伯社叢書)から引用するとー
    「地球が死に絶えた後(四五億年程未来の出来事)でも宇宙のどこかで存続し続けるような、ますます洗練されたコンピュータ技術を開発することによって、技術科学者は徐々に人類を視界から抹殺しつつある。〜略〜 技術科学の究極の目標は肉体なしでの思考を可能にすることである。」(原典は「非人間的なるもの」1988)ここでは科学技術ではなく技術科学がキーワードだ。

    この考え方は極論かもしれないが、面白いと思う。もし肉体と思考が分離できたとすると肉体はどういう扱いになるのだろうか?思考がなくなった肉体はやはり思考できなくなるのだろうか?

    なぜなら肉体があるから生じる哲学的な謎はあるはずだ。肉体がなかったら食事も性交も集団生活をする必要もない。そうすると怒りとか悲しみという感情すら一部、いらなくなる。すると哲学的課題もずいぶんと減るだろうし真理も見つけやすくなるのではないか。

    哲学と科学とは竹田青嗣氏曰く(近代哲学再考より)
    「自然科学と哲学の方法がその基礎原理をおなじくしているからといって 〜略〜 自然科学の領域を原因 ー 結果の系列、その法則や構造の把握をこととするのに対して、哲学はものごとの存在意味、価値、その関係性の把握を目的とする領域だ。」

    そ〜ら、哲学はやっぱりないとダメなんだ。自分が思うに、科学はより個人に向けた強化と繁栄、哲学は全体へ向けた普遍と進歩と棲み分けがされているのだ。

    でもポストモダニズムもやっぱりうまく機能しないとなると、どういう思想がこれから人間を先導していくのだろうか?

    ・・・やっぱり愛だろ!愛!

    なんでも愛でくくってしまう哲学。そんな愛はエネルギー、喜び、美(ヘーゲルも言った)、生命、真理もろもろなのだぁー。
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    自由と平等
    哲学は難しい。若かりし頃、背伸びしてカタ苦しい原書翻訳などをわかったつもりで読んだが、実は何もわかっていなかった。なのでこのごに及んで入門・解説書的な比較的簡単そうな著作を片っぱしから読みあさる。すると夜がうっすら明けるように彼らの難解だったメッセージが浮かび上がってくる。

    もちろん哲学者になろうと言うわけではないので自分の興味、関心のあるテーマに偏(かたよ)っているし、わかってきたと言っても概略の概略?くらいの意味だ。だから初心者すぎてわかりきったことかも知れない。異論やあやふやな部分もあると思うけどお許し願いたい。

    <人間にとって自由とは何か?>近代哲学における重要なテーマのひとつだ。

    一般的には「我思う、ゆえに我あり」という有名なコトバ(命題)を残したデカルトがヨーロッパ近代哲学の扉を開いたと言われている。その根拠のひとつがキリスト教的支配からの分離・解放だ。

    つまり自分って神様の僕(しもべ)だと信じていた人たちが、ほんとうは自分っていう人間なんだよね、と気づかされたのだ。今思えば当たり前のことなんだけど、中世ヨーロッパまでの人々にとって「自分」という意識や感覚は、我々現代人が思う「自分」とは意味や意識や役割が違っていたはずなのだ。

    長くキリスト教的世界観と超人的な王や圧政者たちの支配下で生きた中世ヨーロッパの僕たち。神がいなかったら生きていけないと信じていたから、神を信じることが絶対幸福だと思っていたから、それこそ信仰をはずれると地獄で現世以上に苦しめられると信じ込まされてきた「自分」だ。そんな中、一部の自分たちは貧困と疫病と横暴で無慈悲な執政者や高圧的権威に強制された宗教的人生に矛盾を感じモヤモヤした違和感を感じていたに違いない。

    例えが飛躍しすぎかもしれないけど、そんな状況を現在の我々におきかえると、人類は地球外からやってきた宇宙人だったのだ、というくらい突拍子もないことだと思う。そんなことを今は誰も信じていないだろう。ピラミッドもストーンサークルもやっぱり宇宙人の知識によって作られていた、なんて証明されたら我々はどう思うだろうか?(あまり変わらないかな?)

    なにしろ中世の人たちは大陽をはじめ宇宙は地球を中心に回っていた、とほんとうに信じていたのだから。ちなみに地動説で異端裁判にかけられたガリレオがカソリックに復権したのはなんと約350年後の1992年だった。

    哲学者やアーチストはそんな時代や世相を人一倍の感性と好奇心と実行力で、来る世界へ一点突破を仕掛ける人たちだ。哲学者はその辺のモヤモヤ感をコトバの魔法で真理や理論に作り替える専門家なのだ。ヨーロッパでは引き続きルソーという民主主義を打ち立てた天才が登場。一般意志や社会契約というコトバを使い自由と平等の意味を持ち出して国家や個人の価値が急上昇。さらにカント、ヘーゲル、ニーチェ、マルクスなど教科書の常連たちに受け継がれブラッシュアップ。途中、その実践がフランス革命にたどりつく。

    しかし、やっぱり自由や平等ということはコトバではわかるようになったけど自分たちの外で起こっていることと言えば哲学者の主張する世界とはほど遠い。戦争は繰り返されるし、せっかくフランス革命で市民が自由・平等を勝ち得たはずだったのに恐怖政治になったり、今度は金持ちと貧乏人の格差が生まれる結果となる。

    自由=平等ではなかったのだ!!!

    というのは自由とは何か?と問うとき、自由とはモノを所有できる権利がある、ということがキーワードのひとつだった。人は欲しいモノを自由に持つことができる、ということを自由の必須条件(与件)にしたのだ。

    自由を満喫したいがためモノを持つ。それはつまり平等な社会の証だ。でも万人が同じようにモノを持てるようにならなかった。お金の多寡に差がでてしまうと平等が成り立たない。つまり今度は違う方面から格差が生じてしまったのだ。

    自由と平等のアンチノミー=二律背反(にりつはいはん)だ。民主主義をいくら主張しても、平等は成り立たないという現実。民主主義を訴えるなら平等はあきらめなきゃいけないという、もうひとつの原理原則が混じり込んでしまった。

    それまでは王とか教皇とか血筋や権威が格差の根源だったのが資本家にすげ替えられただけだった。日本ではマルクスはスターリンとソ連とか共産主義の失敗であまりいいイメージがなさそうだが、哲学の世界では評判はいいらしく、自由=平等の不一致を指摘していた。

    そして戦後、それら近代社会の大きな反省からポストモダンという国家、市民社会、個人の自由、などのそれら概念は終わった、という考え方が台頭した。今ではそれさえ終わったらしいけど時流が早すぎるよね。(ポストモダニズムについては研究中)

    では「自由なき平等」=社会主義と「平等なき自由」資本主義から、「自由と平等」が両立できる社会へ、と世界は進んでいくのだろうか?「自由も平等もなき社会」にまた後戻りしてしまうのだろうか? それとももっとバーチャル化が進み「自由と平等のあるゲーム的社会」にでもなるのだろうか????

    もちろん哲学で言う自由とか民主主義とかはこんな簡単で単純な構造で解明されている訳ではない。複雑怪奇なコトバの洪水で硬く結晶化されている。それに多種多様な要因副因因果の青ビニールテープがからまっていて一筋縄ではいかない。

    デモでもデモ!おおよそ、こんな流れではあると思う。さらに人間の欲望の真理や相互承認の捉え方なども併せて理解すると思想世界ももっと奥深くなるので折りに触れて書いてみたい。

    最近読みあさった本の中では、竹田青嗣氏や西研氏がわかりやすくてよかった。「近代哲学再考」竹田青嗣著/径書房、「ウイトゲンシュタイン「私」は消去できるか」入不二基義著/NHK出版、「ヘーゲル・大人のなり方」西研著/NHKブックス、道の手帖「ヘーゲル入門」河出書房新社、「現代哲学入門」 西脇与作著 慶應義塾大学出版会、「ニーチェ」神崎繁著/NHK出版などなど。

    ところで、代々木公園を散歩すると園内の舗装工事は4月一杯続くとのこと。恒例の花見スポット一帯にもコーンやらサクでバリケートされていて今年の宴会はすんなり開催できるかどうか心配になってくる。それに例年だったらすでに先走り開花もチラホラ見られるのだが今年は全くない。ネット情報だと東京の開花は30日、見頃は7日から12日だそうだ。http://sakura.weathermap.jp/

    写真は昔の作品(1985年)
    1984wonderland02_s.jpg
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