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    • Contemporary Art 2.012展
      記事掲載
















  • スランプだぁ
    49ナーズの最後の反撃も及ばす、レイブンズがスーパーボールを制した。QBフラッコのMVP、レイ・ルイス引退とちょ〜盛り上がった。

    日本だって女子柔道が見苦しい状況になっているが、女子アイスホッケー代表が、ノルウェーにまさかの第3ピリオド逆転勝ち。それでスロバキアが格下のデンマークに負ける波乱が。

    そしてこのブログを書く気力がなくてほっといたら、昨日デンマークに大勝!ソチ五輪出場決定!素晴らしい。ナデシコに続け!

    と騒いでいる間に、尖閣問題が野火から燎原の火に。照準レーダーロックオンだと!渋谷陽一もビックリだ。

    ほんとうにあの石原慎太郎のヘリテージ財団での尖閣発言は許せない。

    しかしあの石原さんも、今思えば、権謀術数に長けているように思えて結局、いい人なんだよね。根っからの悪人じゃあない。だって心中、バレバレ。何が言動の根拠にあるか、ミエミエなのだ。悪い人としてはレベルが低すぎる。

    それをバレずにやるのが恐ろし人種であって、いろいろ見ていると日本人は政治家もなにも皆、悪気はないのだ。

    せいぜい、出世か金に対する低俗な欲深さか、浅はかな言動にすぎない。今のお偉いさんはみんないい家のボっちゃんだし、せいぜい、回りにおだてられて舞い上がり、悪人ぶっているだけなのだ。

    過去の人間の起こした悲劇を省みると、人間は一人二人だけだと、いい人たちだ。しかし集まれば集まるほど、何千人、何万人となってくるとヘンな方向に進んでしまう。それはみんなが決して望んではいない方向へ進みたがる、アプリのバグみたいなものなのか?!

    アルジェリアの誘拐殺害事件も実態はスッキリしないで終わった。マリ内戦のフランス軍侵攻、シリア内戦も和平の道筋は見えてこない。

    最近、英文で現代美術評論を読む読書会があり、A/Pseminaire(https://www.facebook.com/groups/433168600078243/)時間があると参加している。といっても英語のレベルは難しいのだが、興味がある分、居眠りもせず、主催者を怒らすこともなく、済んでいる。

    それで先週は、ドイツの巨匠ゲルハルト・リヒターとサイ・トンブレイの評論を読んだ。しかしあちらの現代美術評論も面白い。とにかく作品だけだとキレイ、カワイイ、スゴい、ツマンナイ、別に、という形容詞が口から飛び出すくらいで終わる。

    でもテキストによる解釈が加わると、作品はまったく別の様相を帯びてくる。とくに18世紀からのヨーロッパ絵画は、産業革命、王政崩壊、資本主義勃興にあいまって思想的な解釈が織りこまれていくから余計に複雑になっていく。

    クールベとかミレーなんか、庶民の労働賛美だがそれは当然、価値の変換だし、ミレーも貧しさを落ち穂拾いで訴え、貧乏でも人間として美しい!となるのだ。日本だとウタマロやクニヨシとか、天保の改革の粛正の荒らしを逃げ延びるために、彼らは創造力を発揮。誇張、デフォルメに進化させ浮世絵の世界的人気を勝ち得た。

    たとえばドイツ人のゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter)は、60年代から活躍している現代美術家だが、作風がめまぐるしく変わっていて、今まであまりピンと来なかった。でもその背景には東ドイツ生まれでプロパガンダアート(商業アート)で生業をたて西ドイツに移住、現代美術家として再出発し、成功を収めた。

    作家の精神性、個人的影響、生きることの解釈、社会性。そういったもろもろの要素が織りなされ紡ぎ出された作品を、モノの見事に評論家たちは浮き彫りにする。

    そういう補助線があればより作品の良さ、価値、そしてアートの必然性があぶり出されるのだ。それがよくいうアートの文脈というものなのだが、日本だとタブーが多すぎて、かつ現代美術としての文脈の意義性が付随しないため、一面的になって、趣味の世界で終わってしまう。

    天皇をネガティブに語れない、死をポジティブに肯定できない、思想史がないため議論による展開ができない、そもそも歴史教育に思想的根拠がないから日本について何も語れない。出来事とそれが起こった年号だけじゃ歴史は成り立たない。

    ということで、こういう考え方も西洋的解釈なのだ。これはこれで面白い。ロマン主義になって過去から未来に時間の進み方がシフトしたように。

    でもいくら西洋的な思想的アプローチを日本でいくら叫んでみても、地球の裏側から愛を叫ぶようなもの。日本の独自性、オリジナリティと西洋の奔流をしっかり合流させるような方法論はないのだろうか?

    う〜ん、スランプ。なんかうまく書けない。言葉が降ってこない。

    別にこんなブログに一生懸命にならずともいいのだが、、、無理せず臆せずがんばらずだね。
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    イジメと武士道
    昨日、ジョッギングしてたら、太もものウラにピキッ!と痛みが走った。

    ヤバイ、肉離かぁ?寒いのに準備運動をなおざりにしたからだ。歳には勝てない、、、トホホ。

    それでも、気持ちだけはいつまでたっても、食う寝る遊ぶ。

    これで当分、走れないだろうから、今度は体力余ってダンベル発電(トレーニングによる肉体暖房)をやりすぎて肩とか壊しそう。

    本当に人間の体ってよくできている。

    科学が進歩して体の仕組みがわかってくればくるほど、ムダのまったくない合理性とエネルギー効率のよさに驚かされ、ときどきマジンガーZの兜コウジか、アムロレイのように肉体ロボットの操縦感覚に包まれる。

    それもそのはず、機械の方が人間を真似て生まれてきたモノだから、似ていて当然なのだ。

    女子柔道の園田日本代表監督が、選手からパワハラや暴言などで告発され、辞任を表明。

    桜宮高校バスケ部のキャプテンの自殺も大きな問題になっている。

    どちらもイジメや体罰に関連し、考えさせられる問題だ。

    自分たちの若かった頃は、ケンカ、シゴキ、イジメ、パワハラは日常茶飯事だった。

    小さい頃の自分は、体が弱くて貧弱だったので格好のエジキになった。

    小学校の頃は、同級生にイジメられ、強くなれと近くの柔道場に通わされ、そこでも先輩にイジメられ。

    やっと小学校から解放された中学では、こんどは教師からの体罰だ。といっても自分は大人しい方だったから、在学中、4、5回ほど殴られただけで済んだけど。

    そんな中学時代に遭遇したある体罰を思い出した。

    職員室にいったらバスケ部の後輩がある教師に報復ピンタを受けている。その教師は、特攻隊の生き残り、と学校一恐れられていて、自分とは学年が違って助かっていた。

    延々と恐らく20往復くらいはピンタは続いていた。もちろん回りにいる他の教師は、ビビっているのか、誰も止めようともしない。

    後でその後輩に理由をたずねたら、よくわからないと言っていた。が、思い当たる節がある。

    その後輩の親族(祖父だと聞いた)はとっても有名な大将クラスの軍人だった。鎌倉だったので今思うと訳のわからないエライ人種が多かった。

    つまり、その特攻隊崩れの教師の私情が入っていたのでは、とふと思ったのだ。もちろん妄想だが、当時、世間にはまだまだそんな空気が残っていたものだ。

    話が飛んだが、高校になったらバスケ部でシゴキと体罰の日々。

    今思うと、よく鍛えてくれてありがとう、という気持ちばかりで、憎しみも怒りもない。

    そんな経験で悪かった点をあえて挙げるとしたら、卑屈になって自虐指向が増長されたこと。。。?!

    やっぱり体罰は好くないゾ。

    それは人権にかかわるということだ。

    日本は人権の意識が薄い、とはよく言われるし自分でもそう思う。

    時代は変わったのだ。

    今はアスリートも指導者もたいへんだ。

    昔は、苦しくて意識が朦朧になってもバシバシ引っ張っていってくれた。

    頬をひっぱたかれ、水をぶっかけられ、罵倒され、それでも、なにくそ!とはいつくばった。(少し誇張が入っているかも)

    それが今は厳しく鍛えてくれない、自分で自分を駆り立てないといけなくなった。

    まさにホルモン(古代ギリシャ語で駆り立てるの意味)の時代だ!

    選手自身のモチベーションの大きさで勝敗や成功が決まる、自己責任の時代になったのだ。


    それもそのはず日本では、体を鍛える、体を使うという意味で、スポーツが精神修練法の武道とゴッチャされていたからだ。

    日本は野球道とベースボールというように、なんでも武士道的精神とつなげてしまうのだ。

    体罰、チームワーク(レンタイ責任)、根性、滅私奉公。

    それらも月並みに言えば、愛が基本にあるから成り立つモノだ。

    今のイジメや体罰は、愛がないからダメなのだろう。

    もはやスポーツと武道、分けて考えるべきなのだ。

    コラム「WBC山本浩二監督の“金髪・茶髪禁止令”に野球界から批判の声が聞こえないのはなぜか」はそんな違いを考えさせられた。
    ダイモンド・オンライン 相沢光一著 http://diamond.jp/articles/-/31160 

    でも日本人はいろいろな個人競技でも万遍なく、好成績を残すから、とても優秀。

    スポーツは楽しければ楽しいほど強くなれることも証明されている。

    欧州プロで活躍する大勢のサッカープレイヤーや、ロンドンオリンピックでのメダル数、女子スキージャンプのサラチャンや卓球の愛ちゃんなんて見ていると、武士道的精神論が唯一の強化方法とは限らないことは明らかだ。

    だいたいが無心が極意の武道において、「楽しい」なんていう感情は邪念でしかあり得ない。

    スポーツの世界にかかわらず、自分たち一般ピープルも、自己の存在モチベーションを強く持たなきゃ生きていけない時代になってきている

    それが、「日本を取り戻す」そして「日本人の自主独立」っていうことなんだろうが、このまま武士道精神を活かしていくべきなのか?!

    しかしもって戦後生まれの自己愛が基本の武士道精神では危険きわまりないと思うのだ。
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    哀悼 嶋本昭三
    京都教育大学名誉教授で現代美術家の嶋本昭三さんが亡くなった。

    享年85歳。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

    嶋本氏は戦後まもなく吉原治良が中心になってはじめた具体(美術協会)の発足メンバーの1人で、「具体」という名を考えた人でもある。

    嶋本氏とは若い頃、東京都美術館の公募展「AU」(Art Unidentified、嶋本昭三主宰)に出品したことで知遇を得た。

    その頃の自分はヨーロッパ帰りで右も左も上もわからず、知っていたのは下の生活だけだった。

    留学帰りが華々しく優遇され活躍できるなんてMBAやドクター取得のアメリカ帰りくらいだろう。

    自分はイタリアのペルージャ外人大学の最上級コースに通ったが、最後の修士試験は受けずに修学証明をもらっただけの日本の教育規格じゃ高卒だ。

    それよりも滞欧中、アートの世界に目覚めてしまいペルージャの貸画廊で個展をやって、帰国してからもアート活動を続けていた。

    それで見つけたのがAU展だった。無審査無規格な、昔の読売アンデパンダン展みたいなヤツだったので、嶋本昭三主宰なんてまったく知らずに出品。

    したら年間賞受賞。兵庫県西宮にある嶋本先生が運営するアートスペースで個展をやらせてくれたのだ。

    そのAU展での受賞作は幅90センチ、長さ25メートルくらいのキャンバス布地に描いた作品。まあ巨大絵巻物。

    当時の自分の振り返ると、「誰にも媚びず何も学ばず何も恐れず何も欲しない」とても純真で素晴らしい精神だったなぁ。。。。笑

    今じゃ、媚び砂漠で雑学詰め込みまくって明日の生活にビビリまくったシケモク拾いの河原乞食だ。

    (内なる声)うわっ!ここまで自虐的にならなくてもいいのに、、、
    (もう一人の内なる声)本心じゃないって。同情を買っているんだよ!
    (内なる声)そうか。でもほんと自虐的だ

    それで、西宮のアートスペースで個展をやって、先生のアトリエを見せてもらったり、AUメンバーと知り合ったり、とてもよくしてもらった。荒木さん、橋本さんとか元気かな。

    ところが当時の自分は具体とか嶋本氏のアートの方向性にイマイチ、ピンと来なかったのだ。これもご縁だと思う。残念だけど。

    ちなみに吉原治良のモットー「人と違うことをしろ」「物まねをするな」「オリジナルを追求しろ」。嶋本氏は「われわれの精神が自由であるという証を具体的に提示したい」と命名、具体美術協会が1954年に発足した。

    具体は近年、世界で再評価を受けているが、とにかくメチャクチャなグループだ。

    アートに興味のない人たちにとっては、たとえば嶋本先生の大砲で描くアートとか泥んこ1人プロレスのように足で制作する白髪一雄とか、おっぱいに絆創膏をはって外を歩いていた山崎つる子とか、今だったらまだわかるが、戦後間もない日本での話なのだ。

    具体グループ解散後も、その精神を嶋本氏は受け継ぎ、84年当時でも嶋本氏たちは高所クレーンでぶら下がるアートとかわけのわからないことばかり。

    「AUの論理」という自著を頂いたが、今あらためて嶋本ワールドや具体の目ざしていた思想の偉大さと斬新さに感動する。

    具体に関しては、アンフォルメルの模倣だ、とか賛否両論はあるし、フランスの批評家ミシェル・タピエが見つけなかったら今のようには残っていなかったとも言われる。

    でもそれは偶然ではなくて、作品から放たれたエネルギーが必然的にタピエやアラン・カプローを引き寄せ、世界のアートシーンにその業績を刻み込んだのだと自分は信じている。

    どんなに無名であっても、隔離された環境にその作品や行為があっても、人を感動させる作品や価値・意味のある作品は、人を呼び寄せ残っていくのだと思う。

    裏を返せば、今自分のいる立ち位置は、そういう作品を制作できていないからだ、とも納得している。

    ところで「AUの論理」(嶋本昭三著 1980)から、引用すると、

    ーーーーー下記、P2より引用ーーーーーーー

    未確認への行為の論理

     1956年ミシェルタピエは我々具体グループの仕事に会って、彼の著「激情の明証」に”芸術の現象学は傑作を俟(ま)ってはじまる”と称した。現代芸術は美術グループによって傑作が生まれることはないと信じていたが、具体グループの作為を見て美術倫理の空しさを悟ったという。傑作誕生の論理も、傑作が生まれて後にはじめて定理づけられるものであって論理が先にあって傑作が生まれることは曽て無いのである。〜中略〜
     製作者は知的労働者ではない。ART UNIDENTIFIEDの論理は行為の果に時間性に沿って感じとれる美的体験である。

    以上、引用終わり。太字、()は加筆。

    ところで嶋本氏は、障害者アートなどの慈善活動にも積極的にかかわっていた。それは、具体美術を見るように、自由な精神を尊ぶ創作行為が、多大に関連していることによる。

    敗戦当時、精神を病んでいた子どもたちは多かった。現在も別の意味で病んでいる人が増えているが、とにかく嶋本氏はそういった子どもや人たちのなかに、芸術性を見て取っていたのだ。

    たとえば嶋本氏は、「軽薄のすぐとなりに芸術がある」(精神異常が軽薄という意味ではない)と言い、(P20より引用)「具体の説明をするのに、現在有名になっている作家や美術館におさまっている具体の作品をとりあげて解説するのは、当を得ていない。
     具体は、もともと美術解説者のとりあげ方に抵抗を感じ美術館に納まりかえっている作品に反撥する連中によって、はじめられた運動である。」といいとてもスゴイ作家を紹介している。

     金木義男という作家は、二枚の絵を合わせて釘で打ち付け「見せヘン」と書いた。チョーク箱の裏がキレイと詩を書いて嶋本氏に興味を抱かせた、友原康博氏。彼の中学の時の詩がのっていて、自分も大好きなので掲載する。P21

    松眼伝理衆
    衆心は やみに まじって ぬん

    敬基の 目に もみと ぬん
      伝   伏
    伝状の 納目は きびしい
    人間の おもしろさを 乳ぶく
      伝   伏
    伝状を かざしたら
    宝見の 霜を
    彩ざやかに 血に 変え
    何悦の しょうこと してしまえり
    人間の 肝悦から んもにりぬ 艶

    何とも言えない詩だ。こういう世界は書こうとしても書けるモノではない。

    ちなみに彼は学校のテストには、すべてこういった詩を書いていたそうだ。また一緒に歩いていて、水たまりがあると、ペシャっとそこにうつぶせになり、先生もやって見ろ、と言う。できないと「先生は、世間体を気にしすぎる」「自己防衛本能が強すぎる」と言った。

    あの村上隆がパロッたフスマ50枚を突き破った村上三郎、鷲見康夫のゴミに仕立てた作品、元永定正の煙だけの作品、金山明のラジコンカーから絵の具がでるようにし、走り回させて描いた作品、もちろん嶋本氏の大砲絵画、1000枚のレールの写真作品、2つの映画を同時にひとつのスクリーンで上演、メールアートなどとにかくギネスにのるか、人にできないこと=作品っていう感じだ。

    今のアイデアばかりを追い求める現代アートの元ネタのほとんどが、見つけられるといっても過言ではない。

    人間なんて知能指数とか学歴とか血統の差で、考えることや能力に大差はないと思う。

    合掌

    写真:「AUの論理」嶋本昭三著 1980
    A069.jpg
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    エネルギーと死
    温暖化の冬は暖かくないのか?!

    野菜がメチャクチャ高い。ツライぞ。

    野菜チップスが人気らしいが、まだ試食していない。

    だから暖房とか、ちょっと油断するとゲゲゲっ?!の電気代になる。

    なので脱原発派として、自分の家も再生可能エネルギーにシフトした。

    といってもソーラーパネルとかじゃないヨ。

    ダンベル発電。

    寒くなったら筋トレするのだ!

    あまり持続しないからマメに発電しなければならないのがちょっとたいへんだけど。

    それにムリしすぎると発電機(筋肉)を壊してしまうから、なるべく軽めのウエイトで回数を多くする。

    そんなふうに陽が出ている時間帯は、再生可能エネルギーで暖房だぁ!!!

    ってなことで昨年、恐ろしいくらいに痩せたのが、かなり復活。

    自分にとってパフォーマンス用バディの維持も兼ねているから一石二鳥。

    筋肉記憶って言うのがあるらしく、一回鍛えられた筋肉は落ちるのも早いが再復活も早い。

    世界中、たいへんだ。アルジェリアの悲劇は青天の霹靂。

    災禍に見舞われた方々の、ご冥福をお祈り申し上げます。

    マリもシリア内戦はいまだ泥沼。そこに北朝鮮の核武装。

    世界中、無駄な死や争いがなくなることはない。

    つまり人間は、とても好戦的なのだ。

    アメリカの銃所持禁止令は無理そうだ。

    銃はいまだ西部劇の開拓魂=自由のシンボルだ。

    もし日本での銃所持が、アメリカ並みに簡単だったら殺人はメチャ多そうだ。

    きっとアメリカの比ではないと思う。

    自分だって、とりあえずあの姑息改革なKとTには、マグナム弾をぶっ放したい。

    そう思うとアメリカ人は日本人より我慢強い。

    というか、海外に住んだことのある人からよく聞くのは、

    見た目より欧米人は臆病らしい。

    ガタイのデカさと白人優越性がすり込まれているから錯覚しているのだ。

    日本人に限って言えば、あまり死にはこだわりがない。

    欧米文化、キリスト教文化は死生観に敏感だ。

    ダミアン・ハーストは何億円もするスカル・オブジェを作っている。

    欧米アートでエロスとタナトス(愛欲と死)はモチーフとしては外せない。

    日本のアートでは、基本的に心地よいものでないと、需要がないので好まれない。

    だから描かれない。

    ところで奈良時代くらいから、僧の修行で使ったという九相図という仏教画がある。

    それは小野小町みたいな絶世の美女?が死んで朽ち果てていく様子を描いた9枚綴りのイラストだ。

    今は美女でも、死んだら醜い姿になって朽ちていく、と修行僧たちはそれを見ながら煩悩を追い払った。

    獣が美女の腐肉を食らい、内臓がぐじゅぐじゅに飛び出し、ハエや虫がたかって、白骨化していく過去の美女。

    最近では、日本画家の松井冬子がそれを部分的に引用しているので、少しは知られているかもしれない。

    しかし、国という概念は必要であろうか? 

    もし国というモノが存在しなかったら、戦争も起こらないのだろうか? 

    それとも紛争という形で存在するのか? 

    九相図ではないが、死んで朽ち果てるのはいいが、

    生まれたときはすでに日本人という国籍を背負っていることに、

    それが万世一系ではないが、親がそうだからって、

    思想的にも思考的にも国の束縛から逃れられないことは、よく考えると、とても不思議だ。
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    自主独立はできない
    スランプかなぁ、ブログを書く気がしない。原稿書きのお仕事は年末も休みなくやっているが、なんか虚無感に包まれている。それが総選挙から来たのか、不景気だからなのか、単なるバイオリズムの問題か。

    現代アートとはなにか?そんな自問自答で今年も終わるのだろう。 

    最近、こぞって参加している現代アートの勉強会でいろいろな意見に出会い、むしろ解けつつある疑問が、ドンドンこんがらがっていく。

    結局、欧米キリスト教的、人間中心主義文化の元で発達してきたアートと、日本で言うアートは別物。昔、ヤクルトにボブ・ホーナーというメジャーリーガーがやってきて、デビュー戦で3ホーマー、2試合目に2ホーマー(うろ覚え)と叩きだし、あっという間にホームランバッターで大活躍。

    しかし「日本は野球、ベースボールではない」と名言を吐いて一年で帰国。現代アートも、欧米と日本では、言葉は同じかもしれないが、やっていることと求めている内容が違うのだ。

    話しが飛んだが、自分はこの世界をどう見るか?!どう思想しているか、を問うのが現代美術だと思う。

    それで、率先して意見を言う、自分という存在そのものが、物議を巻き起こしてきた、とても重要な中心点なのだ。

    つまり自分とはいったい何?ここはどこ?そのとらえどころによって、生まれてくる表現についても多様化するからで、そこから紐解き未来の理想的社会へつながっていく希望を指し示すのが現代アートの存在意義だと思っている。

    だから最先端現代アートで展開される世界は、社会における個人的欲望の究極的追求とも受け取れるのだ。そして、それが成り立たないのが日本の現代美術の特異点であり、欧米の文脈に入り込めない原因なのだ。

    最近、さかんに日本人、独立、自立、自主、愛国者、右翼、ネトウヨ、と精神性にかかわる言葉をよく耳にする。

    ちなみに「精神」という言葉のなかには神がいる

    英語だとマインド、スピリッツ、メンタルだが、なんか違う感じがする。英語だと、精神は、より物質的で私的なイメージだ。日本語の精神は、より信仰的でピュアでパブリックな印象だ。

    裏を返せば神が司っている心が精神なのかもしれない。つまり日本人は個人的な精神はない。それは神のモノ。だから、精神とは、神(他者)に従っていることが前提条件なのだ。たとえばキリスト教は、自分がいて神がいて両者の契約によってその関係性は成り立つ。つまりそこでは人間の自己(自立)は存在し、認められている。

    しかし、日本人は生まれたときから、親に言い聞かされる前から、すでに神のシモーヌなのだ(プラトニズムっぽいが)。ここでいう神は、ヤハウエではなくヤオロズの神。だから人を司っている神は、自分で客観的には認識できない。だって自意識はひとりの神なのだ。だから物事を深く考えない。考える必要がない。

    中村雄二郎とか有識者たちがよく言うように、日本人の先天的なスノッブ性やエリート主義も、そのあたりに起因しているかもしれない。私たちにも神が宿っているからエライのよん!神の流れに身を任せ〜♪言葉も神に失礼の無いように、つねに敬語が常態されているし。

    英語で心はマインドだし、ハートとも言うのだろうが、日本語だと、より個人的な気持ちの有り様を表している。つまり日本人には精神性は神のもので個人の精神性が心なのだ。心はすごくクローズドな概念だ。神の懐から少しだけ顔を出しているような感じ。なんか複雑な人種だ。

    古事記では天照大神は高天原で農耕をし、機織り工房もあったという。労働を喜ぶ神なのだ。そして5代のちに初代神武天皇即位となる。そして万世一系の天皇系譜が125代の現在まで連なっている。

    日本の民の精神は天皇に担保している。これが日本人の思想だ。自分の存在とか、その真実とか、本質は知る必要はないのだ。民は神の子孫であり、日本の民は、神の国作りによって創造された葦原の中つ国のあおひと草(葦)から生まれたのだ。

    すべて神の判断、神の仕業だから意義申し立てする余地はない。自立するという概念すら実感としてわからない。おそらく日本人の自主独立は、鎖国という物理的な手段を選ばない限りできないような気がする。

    だからアメリカに負け、軍事的征服のあとに連合国の植民地政策(心理的侵略侵攻)に移行しても、すんなり敗戦から頭を切り換え次の日から、農耕(労働)にいそしむことができたのではないだろうか。その上、極東の4つの大陸プレートのうえにのったくらげのような地盤だから、大地震と火山の脅威にさらされている自然への畏怖も、国民性に大きな影響を及ぼしていることは言わずもがな。

    結論は、基本的に日本人は自立して自らが協力して国家などを運営することは、欧米的思考システムでもっては実現できないと思う今日この頃です。

    前にも書いたが、最近のメルマガやブログ、マスコミの論調は自主独立、反対米追随、日本国家の自立みたいな路線がとても目立つが、なにをもって日本として、どこをゴールにしているのかが、よくわからない。

    江戸時代までの頃の、天皇がいて将軍がいたころの階級社会の日本をさしているのだろうか?それとも飛鳥、平安、平城の貴族封建制的な国家を目ざしているのだろうか?それとも世界が万世一系の民として統一的思想のなかで生きていこうとしているのか(大東亜共栄圏、八紘一宇はこの思想か)。それとも経済的に繁栄したバブリージャポンを目ざしているのだろうか?

    どのみち、よき日本を取り戻したとしても、9割以上の国民は所詮、農民とか貧民にしかなれない(江戸時代でも7%くらいしかサムライ階級はいなかった)。だったらこの世は刹那、おぼろ月夜のはかない夢と思っていても、くらげのように優柔不断でへらへらした民でも、それはそれで面白いとも思うのだ。いつまでたっても欧米キリスト教近代国家から見たら、前世紀的で姿の見えにくい特異な極東地域でもいいのではないか。

    前年の総選挙はそのような本能的な部分が働き、投票率の低さにつながったと思う。自主独立とか反対米追随に対する理想的日本のゴールが想像できず、むしろそれは理想ではないのだ。

    個人的な話になるが、現代アートはそのへんのくらげみたいな精神性と欧米のコンクリートや劣化ウランのような個人の理想のぶつかり合いから、村上隆や草間彌生の次の新たなアートワールドが生まれそうな気もする。

    しかしいろいろ探っていてなかなか光明は差し込まない。「心」が行き詰まっているのかもしれない。つまり欧米の現代美術の文脈のまな板ショーを望むなら、天皇制にまで言及しなければならない、と言うことなのだ。

    やっぱり天の岩屋のお祭り騒ぎが必要かな。っていうか自分でするしかないけど。。。
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