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    • Contemporary Art 2.012展
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  • 現代美術2.012 - その2
    金環日食、スカイツリー開業、旭天鵬優勝!ヤクルトいつもの負けパターン突入!

    しかし大相撲は6年間日本人力士の優勝がいなかったとは。。。。

    さて来週末からはじまる個展のステートメント(趣旨や宣言)後半です。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    前回からの続き「現代美術2.012」

    「感動」は真の自分を偽装した動物的自分をかいくぐらなければならない。そのためにはすでにある経験や知識、美的体験などとは違うものでなければならない。

    これは現代美術の難解さを生じさせる原因でもある。大脳新皮質が認識できない姿をしているのだから。これまで集積したデータベースの中身とは一致しないのだから。

    若い頃、このことを裏付けるような面白い体験をした。

    それは1980年頃スイスの現代美術館でジュリアン・シュナーベルの大きなタブローを前にして何も感じられない自分がいたのだ。高さ4メートルくらいある巨大なタブローに皿のカケラが一面にはられ絵の具で人物などがなぐり描かれ、なぜこれが最先端な表現なのか、まったく理解できなかった。

    それまでに急いで学んだコンセプチュアル・アート、ランド・アート、ミニマル・アートなどほとんど無味乾燥で直線的な現代美術の棺桶のような作品群が先端芸術と信じていたからなおさらだ。

    フラッシュ・アート誌など当時メディアに登場しはじめたシュナーベルやボロフスキー、サーレなどのニューペインティング、イタリア3C(クッキ、クレメンテ、キア)、ドイツの新表現主義(バゼリッツ、ペンク、キーファーなど)たちの筆致の激しい彩色鮮やかなタブロー群は、かつてのラウシェンバーグやコブラ・グループ、デュビュフェなど抽象表現主義的絵画を更新したとしか考えられなかった。

    当時の自分は残念ながらそれら断片の組み立て図でもある思想や哲学的文脈は、まだ手に入れていなかったのだ。そのかわり偏狭な知識や技巧が溜まっていた。現代美術や芸術の一般的知識、マルローの空想の美術館的な作品たち、評判、権威的な見識など容易に手に入るマスメディア情報を断片的に無作為にため込んでいただけだった。

    そんな断片をいくらたくさん仕入れたところで肉体の好餌にすぎず、感性のメタボ化を助長したにすぎなかった。それでは感動が、真の自分に到達する前に肉体の自分で止まってしまう。肉体の自分たちもとても狡猾で甘美だから要注意なのだ。セイレーンの歌声のように待ちぶせている。その誘惑に負けてはならない。

    感動の一撃のときには芸術や哲学、美学など知識も技術も貧しく、慣れない海外生活の困難さや孤独感に打ちひしがれ、肉体の自分が弱っていたことも幸いしたのだ。

    天才たちの中には力わざで強引に突破するアーティストもいるが(例えばピカソや草間弥生)、文脈という道順を示した宝の地図を手に入れた芸術家たちもいる(デュシャンやボイスなど)。

    古今東西、哲学の最大の謎は「自分の存在」と「言語」とそれから導き出される「自由」の概念とも言われている。近代哲学はデカルトに始まり、プラトンから続いた形而上学や客観論から、存在の本質は自分の認識にある、とカントにより転回(パラダイムシフト、価値観の変革)する。ヘーゲルからニーチェ、マルクスなどに受け継がれたこれら近代哲学(認識的転回)は一時代を築くことになり「真理は自分にある。もはや神は死んだ!」とまでニーチェに言わしめた。

    そんな思想の地平もヴィトゲンシュタインの言語哲学、ソシュールやレヴィ=ストロースなどの構造主義など数々の道標をへて70年代、ポストモダニズムが思想のみならず社会全般を巻きこみ跋扈(ばっこ)するに至るのだ。

    ポストモダニズムはヨーロッパ近代哲学・思想に裏付けられた西洋文明がフランス市民革命の暴走、二度の世界大戦、共産主義の失敗などの反省から起こったと言われている。権威主義、教条主義、啓蒙主義などの否定だ。その代表格リオタールが放った名言「ヨーロッパの白人男性が築いた大きな物語の終焉」である。文化相対主義、多元的主義になり差異の価値化に着目。マイノリティ(女性、ゲイ、少数民族など)やアンダーグランド文化の肯定など180度転回したのだった。

    「蛙や蝉のようにコンサートを開き、子供の動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散する」とヘーゲル読解入門(1947年)を著したコジェーヴは来るべきポストモダニズム社会を予想した。

    また「高級文化とポピュラー・カルチャーのあり方には絶対的な差異はないという認識である。(略)われわれに代わって自動的に良いものから悪いものをあらかじめ選択してくれるような容易な参照点はもはや存在しない。」(ジョン・ストーリー「ポピュラー・カルチャーとポストモダニズム」より)のだ。

    まさにウォーホールやリヒテンシュタインなどのポップ・アートからヘリング、バスキアなどのグラフィティ・アートもその証左にほかならない。彼らはアウトサイダーからの突破でありシミュレーションとシミュラークル(ボードリヤールの提示したオリジナルなきコピー社会)の申し子たちなのだ。

    街角にマーキングする記号化と反復。権威権力へのシニシズム(冷笑主義)。そして他のニューペインターたちのタブローのノスタルジーと荒々しいブラッシュ・ワークもクールジャパンのアニメブームや村上隆などのスーパーフラット絵画もその延長線上にあるのだ。

    とにかく表面的には何でもありの混沌とした世相になっているのが現状である。作家が美を作りだし提供するという立場から、例えばハイデッカーの生徒だったガタマーは作る側から見る側に解釈の主役は移ったといい(受容美学)、高田明典はこのガダマーの解釈を「コミュニケーション的転回」でより発展させる。「美的価値とは作者の側にあるのではなく、また受容者の側にあるものではなく、その両者の価値のせめぎあいのさなかに発生するものである。これを芸術のコミュニケーション的転回である」と。

    1988年、フリーズというサブカル的イベントから一気に世界のトップまで上りつめたヤング・ブリティッシュ・アーティストのダミアン・ハーストや自らの性生活を題材にするトレーシー・エミンもこのコミュニケーション的転回の作家とも受け取れないだろうか。例えばデュシャンは見る側に価値をゆだねた(受容美術)。

    YBAsたちは一歩進んで作品そのものより、それによって起こる論争やリアクションを期待するようにシフトした。物議をまず起こすこと。そうすればあとは勝手に世論が仕上げてくれる。東浩紀氏がいう「動物的なポストモダニズム」な世界観だ。つまり個人の欲求と既成価値(権威・権力)の対立、その合意をさぐるパワーバランスの混乱がテーマになったのだ。

    日本では具体グループに始まり70年代までのハプニング・ムーブメント、最近ではチンポムなどメッセージ性の強い作品をパブリックに投げかけるアーティストは時代ごとに登場するが、ただの事件で終わって文化に昇華されず世相の一つで消費されてしまうところはヨーロッパ的思想/哲学的文脈のない文化構造の我が国にとっては当然の帰結なのだろう。

    ポストモダニズムの危ない誘惑「何でもOK」ワールド。それこそ現代美術界においても油断すると、シミュラークルとシミュレーションの迷路にまよい込み、引用の引用や私小説的サンプリングなど表面的だが斬新さをともなって現れる自家撞着的な安易な方法論に陥ってしまうのだ。

    しかし、ポストモダニズムを否定する意見は数多く存在する。そこから抜きんでる思想の萌芽はひっそりと土塊を突き破ろうとしている。その最先鋒「ポストモダニズムと消費社会」の著者フレデリック・ジェイムソンは「素朴な創造性の文化であるどころか、ポストモダニズム文化は引用の文化である」と攻撃する。

    シェリー・レヴィーンやマイク・ビドロなどに代表されるアプロプリエーション(引用)アーティストたちが一時期、活躍したが、現在もその存在感は維持できているのだろうか?

    では新たな地平のどこへ向かえばいいのだろう?

    ポストモダニズムより少し前に活躍した言語哲学者ヴィトゲンシュタイン曰く、「絵画と言語は我々に無限な意味を与えることのできる二つの型式である。絵画は意味を持ち何かを語る。しかし絵画の意味を限定することも語り尽くすこともできない。それは絵画の「語り」と「意味」が言語とは別の次元に存在し、絵画の伝える「思考」が論理空間には存在しないものだからである。絵画は意味を持つが我々はそれを思考できない」

    つまり、これまでいろいろ述べてきたが、思想や哲学的アプローチとは言葉の囲い込みなのだ。言葉をろうし言語世界でつきつめていきながらヴィトゲンシュタインの言う「絵画の思考できない世界」をあぶり出すという試みだ。なぜなら絵画は言葉では思考できない「意味」だからだ。

    だとしたら、あえて自分は絵画に意味を与えてしまおう!思考できる世界へいったん引きづりおろしてみよう!言語と絵画、その境界に感動のシルエットが隠れているのだから。

    しかし、アーティストの本当の仕事とは作品をつくることではなく、感動のシルエットをなぞることでもない。その中にあるのだ。今のところ自分にとってその中は、青く無限に広がる「愛と安心」という言葉で代用するしかなす術を知らない。

    <了>

    個展ご案内ーーー

    ギャラリーコエグジスト・トーキョー企画
    ホルモン関根個展「現代美術2.012」

    新たな現代美術の地平をさぐる試み。

    インスタレーション作品、絵画展示およびパフォーマンス上演。

    開催日時:2012年6月2日(土)〜6月24日(日)11:00〜22:00(月曜休廊)

    6月2日(土)19:00〜:オープニング・レセプション/ギャラリートーク
    ※ウエルカムドリンク付き 

    23日(土)18:00〜:クロージング・あおひと君パフォーマンス。(三味線:早乙女和完)

    〒135-0042 江東区木場3-18-17 2F gallery COEXIST-TOKYO
    TEL 03-5809-9949  Mail : info@coexist-tokyo.com
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    現代美術2.012 - その1
    来月からはじまる個展のステートメントです。

    チラシにも掲載しましたが、いまブログ書けないのでアップしちゃいます。

    長いので2回に分けてます。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    ホルモン関根個展「現代美術2.012」
    創作に関する私論「新たな現代美術の地平をさぐる試み」


    なぜ表現しようとするのか、作品を作るのか、発表しなければならないのか?

    まず思いつくことは「人にほめられたい、他者に認められたい」という欲望の仕業だ。その願望はカントやヘーゲルたちの哲学的探求にみられるように人間の存在および自由の概念につながる重要なキーワードである。

    ではなぜ、他者に認められたいのだろう?

    それは自分という存在が、あやふやなそれ自身では成り立たない存在だからだ。自己意識は他者(鏡)を通じてのみ認識できる。そして自由(ユートピア)という自覚がわき起こる。まるで肉体というオリに閉じこめられた何か、肉体の壁のむこうがわに何かいるのような感覚だ。

    ではなぜ、認められたいがために「現代美術」を選んだのか? 

    ギリシャ・イタリア留学中、数多くの「ホンモノ」(泰西名画から現代美術まで)の感動の波状攻撃をあびてしまったからだ。

    その圧倒的なエネルギー(感動)はコンプレックスと既成価値がこびりついた肉体の殻を突き破り、とてつもなく広大な別次元が自分のうちに存在することを教えてくれた。一言で言い表すと「青」一色の無限の世界である。

    その中で自分はニーチェのいう超人にもなれ自由な感覚に酔いしることもでき哲学用語でいう「快」(心地よさ、幸福感)に全身包まれる。

    このように感動は肉体のなかに幽閉されている自己を「駆り立て」(古代ギリシャ語でホルモンの意味、ニックネームの由来)目覚めさせてしまった。はからずもこの駆り立てられた自分が存在する以上、無視することができなくなってしまった。

    この体験から、自分には肉体とその中に別の真の自分がいるような感覚がつきまとうようになる。当然、精神は肉体の自分にもあるし、かれらも他者から認められたいことは真の自分と同じ。なので時として肉体の自分と真の自分を見間違えることもあるからやっかいだ。ただし、こういう感覚はモノと心をわけたデカルト的二元論やプラトニズム(イデア論や形而上学)とさして差がないことも承知している。この私論はあくまで創作の補強であって哲学的試論ではないことを断っておく。

    では「感動」とはいったい何なのだろう?

    この命題は古代ギリシャからずっと問われているテーマでもある。恐らく今をもっても的確な哲学的解答も科学的な根拠も見つけられていない(茂木健一郎氏など脳科学者がそれを「クオリア」と呼び、研究されてはいる)。

    ただ感動とは、自分を自分たらしめる手段であり自分の本当の存在を気づかせるモノだ、ということは少なくとも言えるのではないか。

    ある意味、自分にとって大きな不幸のはじまりとも言えるのだが、現代美術にすっかり魅せられてしまった自分は、同じような作品を作り出せれば皆から認められるし、また感動を常に作り出せるのだったら自己を確立でき自由になれる、と幻想も抱かせた。そして浅はかにも作家になろうと決めた途端、大きな壁にブチ当たるのだ。

    当たり前だが原因がわかったところで言葉で納得できたところで、感動を与えられる作品が描けるとはまったく次元の違う話なのだ。それは水の分子構造を知っていても簡単には水そのものをつくることができないのと同じだ。

    技巧も含め試行錯誤を経た末、東洋思想を懐にたずさえながらヨーロッパ近代哲学にその突破口を見つけ出そうとする。

    なぜなら現代美術(それはルネッサンスでも18世紀でもその時代の先端にあれば現代美術という意味)はヨーロッパ文化においては歴史的に思想・哲学の仲間と考えられていたからだ。ヨーロッパ文化は宗教の影響もあり、はじめに言葉ありきの世界である。

    それが思想や哲学をも発展させた。なぜなら言葉で説明、置き換えられないものは存在しないに等しいからだ。キリスト教がイエスと弟子たちの言葉で成り立っているように。

    近代まで学問も芸術も特権階級だけの存在だったが、芸術作品も時代の要請でその意義や形態は変化しつづけながら思想・哲学分野に組み込まれてきた。そして権力・権威に強固に関係すればするほど歴史に加えられていく。ということで前途多難な荒波に帆をあげてしまったのだ。

    最初はまったくの複雑怪奇、一行も理解できない哲学的エクリチュール(書き言葉)が明け方のモヤのように晴れていき、同時に現代美術の水平線上に陽がのぞき水面が輝きはじめたのだった。

    (次回に続く)

    個展ご案内ーーー

    ギャラリーコエグジスト・トーキョー企画
    ホルモン関根個展「現代美術2.012」

    新たな現代美術の地平をさぐる試み。

    インスタレーション作品、絵画展示およびパフォーマンス上演。

    開催日時:2012年6月2日(土)〜6月24日(日)11:00〜22:00(月曜休廊)

    6月2日(土)19:00〜:オープニング・レセプション/ギャラリートーク(ホルモン関根&コエグジスト・トーキョーディレクター島津こころ) 

    23日(土)18:00〜:クロージング・あおひと君パフォーマンス。(三味線:早乙女和完)

    〒135-0042 江東区木場3-18-17 2F gallery COEXIST-TOKYO
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    いや〜オリンピック
    来月の個展の準備で大わらわ。ブログを考える暇がない、、、汗

    政治やら世相やらグチだったらたくさん書けるだろうけど、いろんなサイトでカンカンガクガクだから詳しい人にまかせておきましょう。

    そういえば、昔、知恵だったのが知識になって、情報へ変化したら最近はコンテンツというそうだ。

    今はスマートフォンが普及して、知恵も知識も情報もコンテンツにおまかせ!

    ところで今年はオリンピックイヤーだから選手たちの一喜一憂、代表選考が熱い!アイナック神戸の京川選手がケガして代表入りに暗雲たちこめたり、鈴木桂治選手は脱臼をおして出場するが初戦で敗退。そういえば福見選手は初選出。昔、谷選手に決勝で勝っていながら海外実績のなさの代表落ちが印象に残っている。

    猫ひろし氏は仕方ないでしょう。2時間半は自分からすれば、すごい記録だけどオリンピックでは20分以上も差があるもんね。次回期待しましょう。

    もう一人の芸能人プレイヤー山崎静代選手はどうだろう。初戦勝利だそうだ。でもスポーツのビジネスの部分は認めるけど吉本がバックってのが気になるね。

    とにかく女性アスリートたちの躍進はすごい。最近はみんなおしゃれでかわいいからなおさら注目してしまう。いや〜日本の首相も女性の方がいいと思うのだ。ドイツのメルケル首相はサッチャー越えの評価だし。

    ところで水泳平泳ぎ北島の最大のライバル、ダーレオーエンの死は驚いた。世界トップクラスの選手たちは並大抵のトレーニングではないだろう。

    昔はステロイドなど薬物でよく死んだそうだが、今はいろいろ先回りして試合にあわせた解毒期間を計算して投与することもあるそうだ。

    ボディビルの世界は薬物OKのチャンピオンシップとノードラッグ協会の試合があって雑誌で見たことがあるけど、その筋肉の差はすごい。薬物(ステロイド)ってほんと効果がある。ムキムキとぷにゅぷにゅくらいの差かな?!

    これからオリンピック代表選手たちの調整やら追い込みやら大変だろう。

    国民はオリンピックに注目してメダル争いで白熱するのだろうが、ギリギリで選考落ちした選手たちの心境って計り知れない。ほんとうに悔しいんだろうなぁ。

    そういえばボーリングやらゴルフやら野球などなくなる競技の代わりに加える加えないと少し話題になったことがあるが、俳優の村田雄浩さんなんかボーリングで出場狙ったりするんだろうな。

    これからテレビや役者だけでは稼げないからプロダクションのバックアップで選手やプロに転向する人もどんどん増えそうだ。お笑いネタがつきると博識を売りにクイズ番組で引っ張り銀ダコだったタレントたちの食える時代も長くはないだろうし。

    でもある意味、結果がはっきりしているからまだいいか。現代美術なんてなんだかわからない魑魅魍魎な世界だからまるっきり反対の世界だな。
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    言語ゲーム続き
    前のブログの続き。

    橋爪大三郎氏の著書「はじめての言語ゲーム」(講談社現代新書)で面白いことが書いてあった。

    江戸時代に本居宣長(もとおり のりなが1730〜1801)という人がいた。カントとだいたい同じ頃の人で医者であり国学者として歴史に名を残した。

    彼が源氏物語を読んで「もののあわれ」(感動)ということに興味を持つ。

    ウィキペディアによると「もののあはれ(もののあわれ、物の哀れ)は、平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つ。折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や哀愁。日常からかけ離れた物事(=もの)に出会った時に生ずる、心の底から「ああ(=あはれ)」と思う何とも言いがたい感情。」だそうだ。

    しかし江戸時代の当時でも源氏物語はすでに、儒教思想や政権権威などに捕らわれた、歪曲された解釈がまかり通っていたらしく、本居は純粋に作品を味わことを主張した。

    それで彼は漢意(からごころ)とやまとごころを提唱。儒教・仏教など中国からの知識やシステムを漢意といい、それを排除した実証的学問を提唱したのだ。

    そして彼の研究は、当時の世相、つまり江戸期になっての儒教・朱子学・仏教などの中国外来思想と日本の古来の文化の対立から古事記にターゲットを定めた。

    なぜなら日本書紀の方が正統性があり古事記はなおざりにされていたからだという。それは古事記には中国から文字が持ち込まれる前の口承伝承の部分も多かったためで、彼はそれを研究することで天皇の存在証明や正当性を訴えたかった。

    本居は「道のないのが道である」といい、ヴィトゲンシュタインのその言語ルールに似た思想を示していたと橋爪氏は指摘する。

    (引き続き引用)「上代の日本に道がなかったのではない。中国のようにわざわざ統治者の命令によって「道」を制定し、文字テキストを残さなくとも、人々は自発的に道に従っていた。儒教を必要とした中国にくらべて、必要としなかった日本の方が優れている。」ということだそうだ。今の政治家や官僚の方々に贈りたい言葉だね。

    本居は尊皇派で右翼的な人物からの人気があってイデオロギー色が強い印象だけど、けっこう着眼点は鋭い。蛇足だが、短歌の才能はよくなかったという。

    かなり「道」の思想は自家撞着でヘリクツに聞こえるかもしれないがわからないこともない。つまり、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームのいう、規則(ルール)の基づいたふるまいが「道」に値するのだ。

    (同書から)H.L.Aハートが「法のルール説」(1961)を著し、一次ルールと二次ルールを規定し一次ルールとは書かれない法で責務を課すルールといい、二次ルールは法律など明文化されたルールで承認、裁定、変更のルールと定義づける。

    そして人々のふるまいの一致は権力者の命令によるものではなく、自然発生的なものである。人びとには規則(ルール)に従う能力が元来そなわっている。この能力こそこの世界を成り立たせる根源である。」以上。

    でもこの精神って今の日本人にもかすかに受け継がれていると思う。以前ブログで、「原発に銃火器を携帯しない警護はどうしたものか?」とアメリカから指摘され日本の担当者は「日本の法律では銃の携帯は違法だから大丈夫だ。」と答えアメリカ側がその答えに唖然とした話で、日本人の危機管理能力のなさを揶揄したことを書いた。

    でも彼ら日本側担当者たちは心から、そう信じていた、のかもしれない。たぶん日本人には根っから性善説みたいなものがこびりついているんだろうな、と自分を振り返ってもそう思う。

    もちろんそれを書いたときの自分の立ち位置は、日本の危機意識の甘さにあきれたのだが、内省すると欧米文化に染まってんなぁ、とも自覚する。

    こんだけ国際的になりグローバルスタンダードになり交流激しい現在、もちろん性善説だけでは立ち行かないことは明らかだけど、そんな国があってもいいじゃん。

    ブータンとかそんな感じなのかなぁ。ブータンで個展したいなぁ。
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    言語ゲーム
    GW終了。5、6日はスーパームーンだった。初めて知った。見かけの大きさで14%、明るさで30%も明るいそうだ。確かに明るかったなぁ。

    月の誕生に関してはいろいろな説があるが、いま一番、有力な説が36〜40億年くらい前、他の惑星とぶつかってできたジャイアント・インパクト説だ。

    火星くらいの原子惑星が地球に衝突してその破片でできたという説。その際に地球の地軸が23.5度くらいに傾いたらしい。そして月は遠心力で毎年3センチくらいづつ離れていて現在、約39万キロ彼方にあるそうだ。

    年間約3センチって爪の伸びる速さや地球の地殻の移動距離もそんな数字だ。そういうのって万有法則に則っているのだろうか、不思議な一致?!

    ところでアポロの月面着陸は陰謀説などささやかれているが日本でも初めてのカラー衛星中継放送ですごく盛り上がった。そのときは家族がひとつのテレビを囲んで手に汗を握りながら観ていた記憶がある。いまじゃ、火星に無人探査機だが何台も着陸しているのにあんまり話題にならない。あと十年もすれば有人火星探査だろう。すごいよね!

    最近の自然科学の進歩は目にみはる。いろいろな謎が明らかになっている。宇宙・人体・自然科学などでの発見や新説など昨日の説は今日のゴミくらいの勢いだ。しかし自然科学にくらべ哲学的な進歩はどうなんだろう。

    自分は誰か?感動とは何か?なぜ人を殺してはいけないのか?なぜ戦争だったらいいのか?などなど数々の命題は解決しない。というより解決できない。つまり人間は肉体がないと成り立たないからだ。それは肉体を消失する環境や条件に縛られているからで、命題もその条件によって180度変わってしまうこともあり得るからだ。

    ということで哲学はポストモダンでゴッタ煮OK状態、なんでも批判小僧になってしまってから面白い話がなかなか聞けない。

    それはもう哲学は、大きな物語が終わったのと同様、哲学の物語も終わった、というリチャード・ローティのようなプラグマティズムが趨勢を占めるのかもしれない。それはかつて哲学の求めていた真理の探求を「哲学の終焉」と称し、哲学も含めたあらゆる文化的現象を関連づけ名付け相対づけをすることがポスト哲学と呼び、哲学の新たな地平をさぐる。ような立場。

    ところで何回か取り上げている哲学者にヴィトゲンシュタインという20世紀前半に活躍した巨匠がいる。オーストリア人だった彼は学年はじゃっかん違ったらしいがあのヒットラーと同じ高校で学んでいた。ちなみに二人ともあまり学業はよくなかったという。

    なぜか彼の主張した言語哲学が面白くて、言葉や表現や翻訳も難しいのだが、なんとなく感覚的にジワジワ染みてくるから不思議だ。哲学なんてプロ野球と一緒だと思っていて、3割バッターでいい、つまり3割もわかればOKだと思っている。

    彼の有名な業績に「言語ゲーム」というのがある。なんか王様ゲームみたいなチャラい呼び名だけど言葉を使うゲームではない。簡単に言うと、言葉の生成プロセスみたいなことだ。

    ヴィトゲンシュタインは言葉が全てで言葉があるのが人間の証明みたいなことを主張した。たとえば「言語の限界は私の思考の限界でもある」という。

    宇宙の果てを想像してみる、とする。すると過去、自分がテレビや本などでみたり読んだりした宇宙の果てのイメージを思い浮かべることだろう。

    しかし、ここで「宇宙の果てを想像してみよう」と言葉の指令が脳の中で言い交わされて、記憶をたどったりしていないだろうか。

    というのは自分が言葉を介さないでイメージ(映像)で、宇宙を思い浮かべてそれがどんどん遠ざかっていって宇宙のキワみたいな映像が浮かぶ、なんて煩わしいことはできないと思う。イメージ(絵柄や景色)だけで脳の中で話を展開するのがどんなに大変なことかやってみると面白い。

    それよりもその「宇宙の果てを想像してみよう」という設問を言葉以外で理解することがまず不可能だ。イメージでは、情報量が膨大で脳がそれを処理できないのだ。そこで情報量がぐぐっと減る言葉がその処理を代行しているから思考ができて、いろんなことを推測できる。

    そこで言葉ゲームとはなにかというと、たとえば「机」という言葉は誰でも「机」と言われれば「机」を思う浮かべられる。では、「机」という言葉を知らなかったらどうやって教えたらいいのか。

    言葉だけで「机」を説明するのはけっこう面倒くさい。部屋において平らなイタに上にいろんな物を置くもので、、、もちろん家具とかイスとかの言葉も知らないとするともっと大変だ。

    彼がいうのは、机を教えるためには、いろいろな実物の机を持ってきて見せる(直示的定義というそうだ)。するとある時突然、わかった!、と「机」という言葉は何を表すのかを学ぶだそうだ。

    橋爪大三郎著「はじめての言語ゲーム」(講談社現代新書)にわかりやすい説明があるので引用すると、「机の意味を理解するのにそんなにたくさんの机をみる必要はない。私たちは有限個の、それもごくわずかの机をみるだけで十分なのだ。わざわざ世界中の机すべてをみなくても机の言葉の意味がわかる。有限個をみるだけなのに数え切れない場合にあてはまる規則(ルール)を理解する。こういうなんとも不思議な能力によって人間は言葉の意味を理解する」

    つまり言語ゲームとは、規則(ルール)に従った人々の振るまい、のことなんだそうだ。ある言葉がある意味を持つということは、人々がその言葉に対して暗黙のルールがあって共通しているから、その意味が与えられる、だからお互い言葉の意味がわかりあえるということらしい(ややこしいよね)。

    日本だけに適用するならそれはあまり問題にはならないだろう。でもいまはネットもつながり交通も発達し、世界中、行き来できる。情報に限って言えばネットで用は済んでしまう。そういう現実でも言語ゲームが成立するのだろうか?といろいろ疑問が浮かんでくるのだ。

    自分が感じるに、おそらくルールの微妙な違いが今、いろんなところに現れているような気がする。つまり個人個人のルールがそれぞれ微妙に違うのだ。でもそのルールの違いを検証することはないから、各人言葉の意味が微妙に違いながらも自分のルールを当てはめながら最大公約数的に理解している。それでもって自分の正当性を主張しても一致しなくなるのは当然の結果だろう。

    特に最近のIT文明のおかげでワンワードのスペルミスではじかれる厳密さが無意識にすり込まれている現状、以前のようなアイマイさに過敏症になっているから余計にこじれる。

    また一例としてヒットラーの全権委任法のことに触れていた(立法権をナチス与党に全権委任する法案)。つまり民主的に議会でナチスはこの法案を多数決で通し(もちろん八百長採決だった)ナチスが合法的にすべての権力を手中にしてしまった。でも見かけ上、ルールに従った議決だから誰も文句を言えない。言語ルールのルールがあいまいなところもあるのだ。

    本当はもっと難解でアイデア豊富な説でいろんな事例に当てはまって要るにもかかわらず、うまく説明できないのが残念だ。

    とにかく言葉は、かなり複雑に人間の行動や社会システムすべてに絡まり人体にながれる血流みたいな存在なのだ。血球が酸素や栄養を体のすみずみまで運ぶ役目を担っているけど、言葉も同じように心や知覚やふるまいの栄養やエネルギーを心のスミズミまで運んでいるのかもしれない。言葉は言霊という日本のいい言葉があるじゃないか。

    「読書は精神のエアロビクスだ」なんて名言も聞いたことがある。けっこう当たってるかも。
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