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    • Contemporary Art 2.012展
      記事掲載
















  • 現代美術と文脈
    AKB48が絵画展を構想中とネットニュースに流れていた。盛り上がりそうだ。若い人たちを含め、アートにもっと興味を持ってくれれば、それに越したことはない。あえてそれがアートとか芸術とか、それに対してアーだ、コーだぁって言っても意味は無い。

    と言っても「アート」や「芸術」。本当のところ、これって何なのだ?自分もこんなやっかいなヤツに出会わなければ、もっと幸せな人生を送りことが出来たはずだったのに〜。

    今はあまり聞かなくなったが、若い頃、絵を描いています、と言うと、
    「抽象画ですか?(間が空く)・・・現代美術は難しくてねぇ、、、」
    あいさつがわりだった。そして「はい、さようなら」という意味もかねていた。

    最近は現代美術もなんとな〜く定着してきた感はあるが、まだまだ音楽や小説にくらべると認知度はかなり低いことは否めない。

    それでも東京にはギャラリーがたくさんある。都現代美術館や国際新美術館みたいな立派な施設も多く、国内外の有名なアーティストの展覧会もたくさんやっている。そこでは一切合切をアート、芸術、美術などの言葉でくくり、古典絵画、工芸品、書道、手芸、日本画、彫刻、絵画、インスタレーション、マルチメディア、写真、映像、パフォーマンス、アニメ、イラストなどなど一糸入り乱れ百花繚乱、すごい文化大国だ。

    自分のやっていることはその中の現代美術。でも最近、この言葉がしっくりこない。ひねくれモンでなまけモンでホルモンだからあまり気にならなかったが、哲学かぶれとヨーロッパで現代アートに対する解釈の仕方をいろいろ体験したためか、日本語の「現代美術」にとても違和感を感じているのだ。

    美は英語で、Beautyやgrace。すると日本でいう美術とはBeauty techniqueだ。業や術はArtという以外にtrick(トリック)とも言うからBeauty trickではないか、まるでお化粧みたい。

    芸+術はArt art、 art trick、Performance techniqueとも訳せる。逆に言うと日本語の芸術や美術のシニフィエ(意味されるもの)は一切合切の人工的もしくは技術的表現物と捉えて正しいとも言える。結果、今までにない卓越した技術で描かれた絵が驚きでもって迎えられ、緻密な螺鈿細工がこれこそ芸術だ!となるわけだ。それは世界一速く100メートルを走った選手が金メダルをとるのに似ている。

    また美術とは、明治時代に西周(にしあまね)という人がファイン・アートから訳語した言葉だ。彼は他にも哲学とか理性、科学、技術などの訳語も作った偉い人なのである。でも日本語は中国語の表語文字のような固有のイメージを持つ漢字に訳してしまうと意味が変わってきてしまう。もちろんその訳語がつけられた当時は日本も開国して間もないし、それを検証できるような状況ではないから、現在まで無批判に使われてきたのだ。

    ちなみに英語のArt、ドイツ語のKunst(クンスト)は、人工的な、技術という意味の古代ギリシャ語のTεχνη(テクゥネー)をラテン語訳したarsから作られた単語で、ファイン・アートは純粋な人工物もしくは技術という意味が強い。

    例えば美学が、aestheticsと言うようにBeautylogyでは決してない。美容エステという和製語で有名なエステチックの原語は古代ギリシャ語の「感性」「感性学」の意味で、美を感じる機能は何なのか?どうして感動するのか?何が、なぜそうなるのか?ということを探る分野なのであって、美しいものそのもの研究ではなく、それを感じる人間の仕組みや人間と美の関係性を探る学問(作業)なのだ。

    おおざっぱに言っちゃうと「視覚の探求」が現代美術だ。だから彫刻を作ったり絵を描くことだけではない。絵や彫刻はそれを構成する記号のひとつにすぎない。卓越した技量の完成が最終目的ではない。求めているのは今までにない感覚、感性の発見であり、その作品と感性の新しい対話なのだ。結果、新しい感性を開発するようなモノもしくは行為が、新しい美しいものとしてノミネートされる。

    だからすでに美しいと価値が確定していたり、すぐに美しいと感じてしまう(=美しいという言葉が浮かんでくる)ものは経験値の仕業であり、過去のモノであり現代美術の標的ではない。

    よく、数億円を超えて落札されたりする草間彌生や村上隆の作品を揶揄するが、欧米文化では知覚の開発を成し遂げた作品・現代美術家はとても評価される。月に行った宇宙飛行士、オリンピックの金メダリスト、ノーベル賞、映画スターと変わらない。最近は投資対象にもなってしまって少し不純にはなっているが、いい作品はやっぱりいい!草間彌生や村上隆の作品が海外で人気があって価格が高いのは、美しい絵だから、という理由ではない。

    ではそういう作品はどうやって判断したらいいのか?どういう作品が現代美術的に、評価される作品なのか?

    それは哲学・アート・世相などの文脈の流れを汲んでいることなのだ。文脈=コンテキスト、辞書で言うところに、脈略、前後関係、背景などとも解釈される。

    つまりいい作品は前後関係がしっかりしている、脈略がある、背景がちゃんとしている、ということだ。

    では現代美術で言う文脈って、脈略って、背景って、何?と言うことになる。

    ところで美学とは哲学であり、真理の探究が哲学の目的だと仮定すると、現代アートもしかり。文脈は美術史の流れというより哲学・思想の流れだ。それが歴史、社会システム、イデオロギー、世相などから個々人の欲望や思考まで、綿々と一本の糸でつながっていることが必要なのであり、逆に言うと真理にちかいからすべてにつながるのだ。

    例えば、デュシャンのレディメード作品はヴィトゲンシュタインからソシュールなどの言語的、構造主義的転回そのものだ。つまり泉と題されたデュシャンの便器の作品は、今まで作品が主体となって絶対的価値観を主張してきたが、20世紀に入ると、それはそれを受け取る側の解釈の仕方や語彙や体験などにゆだねられ新たな価値が創造される、といった哲学や思想の流れに合致しているのだ。

    同様にポップアートは当時繁栄を極めたアメリカ消費社会とシミュラークル(オリジナルなきコピー社会)な転回に組み込まれ、当時の時代背景や世相をより分かりやすくすることに貢献している。だからウォーホールやリヒテンシュタイン、オーデンバーグなどPOPアーティストたちは時代を先読みできた特異稀なる感性の所有者でもあったのだ。

    昨今クールジャパンの影響なのか、日本の若いアーティストたちは、私小説的な世界、詩情あふれる色合いやアニメタッチ、80年代を彷彿させるヘタウマ系の表現が好きらしい。

    今の若い人たちは技術があるので本当に上手い。でもアートは技術のうまさを競うものでは決してないし、既成の美しさを見せ合うことでもない。すでに述べたが、より深く感じさせる=知覚の感度を上げる作品を提示することなのだ。そのためには緻密な描写力で描く必要があったり、反対にわざとヘタに描かなくてはならなかったり、ただ日用品を並べるだけの作品をつくる必要性もでてきたりする。

    例えば日本で70年代、もの派という大きな運動があった。リー・ウーハンや関根伸夫、菅木志雄など活躍。拙筆から引用する。(ナイルスナイル124号「余白の芸術家 リー・ウーハン」より http://www.super-blue.com/product/p_niles18.html

    もの派とはー今までの西洋美術やそれに多大な影響の受けた日本の美術界。それら作品が訴えるメッセージや世界観はあくまで作者が作り上げたイメージにすぎない。そのことを疑問視し批判することによってアートの行く末=本質が見つけられないか?ーという難しいテーマに取り組んだのだった。それは人間中心で繁栄してきた社会そのもの、それら価値観に痛烈な批判を加えていることでもある。

    
 作家の手の加えられていない、描かれていない“もの”にこそ“アート”の本質が隠されている、それを示唆し人間のこれから出会う未知の領域を探すための地図は、すでにずっと以前から“もの”に描かれている、作家たちはその入り口を示してやるだけなのだ、と。

    ゆえに、まったく手を加えていないおおきな石やガラス板を立てかけるだけ、の作品になるのである。だからその文脈をわかっていないと、なんでこれがアートなの?ってなことになる。作家もそういう思想的な流れを組み込んでいるから彫刻したくても何か自分の印をそこに描きたくなっても一切しない。彼らにとっては手をつけないことが、描くことでもあり制作することになるからだ。

    昔は西欧のことばかり言うと、西欧かぶれとかいって非難された。しかし現代美術は世界共通語だ。何人だろうが国籍がどこであろうと同じ土俵で競い合い、検証しあうしかない。アーティストに言語や国籍は問わない。問われるのは文脈のより普遍的な分析・解釈の仕方だ。

    画家が自分の作品に対して「見る人が自由に感じとってもらえれば、それでいい」とよく聞くがそれは趣味のイラスト画だ。いくらデカいキャンバスに油絵で描いた、としても文脈の検討がなされていなければ、イラスト=解説画なのである。現代美術ではない。(しかし現在のコミュニケーション的転回という場においてその意味が生成・創造されているとも言えてしまうから一概に否定は出来ず、怖い)

    反対に文脈の裏付けがしっかりしていれば、デュシャンのようにイケアやハンズあたりから買ってきた金魚鉢をそのまま見せても現代美術になって法外な値段で売れてしまうのだ。そこには美術評論家、批評家が寄り添い、舌っ足らずな画家にかわって文脈の検証を裏付けてくれ、中間マージンをとるのである。

    よく見かける一発芸的な作品、思いつきアイデアだけの作品、子供が描いたような絵などなど。そういう無意識な物まね作品は底が浅いので、すぐに見破られる。恐ろしいほど、作家の意図が見てとれてしまうのが現代美術だ。これこそ古代ギリシャ人から延々と問われている人間の感性のすごさであり面白いところでもある。

    石ころひとつでも歴史や時代性、思想性など文脈をちゃんと踏まえ昇華した作品だったら現代美術史のアンカーポイントになる可能性が大なのである。それは国境を越え世界の哲学者、思想家、詩人、社会学者、アーティストなど知の開拓者たちに伝播し知と感性のメインストリームになって未来へ流れていくのである。
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    アンデス中島展告知です
    今日から北欧を中心に活躍する現代美術家中島由夫氏のご子息アンデス中島氏の作品展がはじまった。

    場所は表参道にあるギャラリーコンセプト21。アンデスさんの作品と父・中島由夫氏、ミロ、シャガール、マッタ、ダリ、フォンタナ、ローゼンソーンのリトグラフも展示。

    お近くにお越しの際、お時間がありましたら、お立ち寄りください。

    アンデス中島&Swedish Collector Art Work 展
    日時:2012年1月18日〜24日、11:00~19:00(最終日15:00)
    場所:ギャラリーコンセプト21/港区北青山3-15-16
    http://www.g-concept21.com

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    引き続き、大丸京都店で開催されマス。

    アンデス中島 油絵展
    日時:2012年2月1日〜7日、10:00~20:00(最終日17:00)
    場所:大丸京都店6階アートサロンESPACE KYOTO/京都市下京区四条高倉西入 http://www.daimaru.co.jp
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    匂いの記憶
    人間の五感 — 視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚。

    その中でいちばん重要な感覚は?と問いたら、視覚と答える人がほとんどだろう。

    人間の感覚を補う能力は強力で、ひとつの感覚が機能不全をおこすと、急に他の感覚が研ぎ澄まされ、代用しようとする。

    これまでに2回ほど、ダイアログ・イン・ザ・ダークというイベントを体験した。

    それはまったくの真っ暗闇、薄明かりすらなく目を開けていても真っ暗で、もはや目を開けているという感覚すら感じられない。そんな仮設空間を数人のグループで各人、杖を使い全盲のガイドの方に先導されながら一時間半ほど散策する体験型アート作品だ。

    これはドイツの哲学者アンドレアス・ハイネッケ博士の発案で1989年以来、世界30カ国以上で開催されている。現在、日本でも開催中 http://www.dialoginthedark.com/

    最初に体験したときは大変だった。目の前に広がるブラックホールのようなまっ暗闇へガイドさんの声を頼りに進んでいくと、何とも言えないパニック症候群のような嫌〜な恐怖心に全身が震え始める。

    ヤバっ、怖い!逃げ出したい! スタッフさん曰く、体験出来ず帰る方もいるという。しかし自分は高い入場料払っているし!と自らをホルモンじゃない、駆り立ててトッカ〜ン進め〜!

    落ち着きが戻って余裕が出てくると、どう思っても真っ暗で何も見えないのだが、なんか見えているような感覚になってくる。

    無意識に視覚以外の感覚を総動員しているのがヒシヒシ感じられ、音がとてもクリアになりだし、すべての肌がとても敏感になっているのだ。それこそ幽体離脱じゃないが、肉体が自分の意思と関係なく一生懸命働いてるぞ〜っていう感覚。人間は、肉体に自分という別の霊的存在(エネルギー?)が宿っている、と思わざるを得ないくらいのとても不思議な感動が得られた。

    一時間もすると見えている気になるからスゴイ!脳内では視覚以外の情報で自分なりの風景と状況を想像している。杖から伝わってくる触感もリアルに映像化され、もし会場が急に明るくなったら、自分の描いているイメージの違いに驚かされるに違いない。

    アルタミラなど古代壁画を研究しているある学者に言わせると、文字が発明されるまで人類は、水平や垂直などへの関心は低かった。洞窟に壁画を描く際、構図的な意識はなかったらしい。人類は文字を書き記すことによって水平や垂直といった空間把握と概念が築かれてきたと言う。

    今や人類は水平・垂直が重要になってすべて線的に捉える傾向があるが、原始時代は視覚より聴覚が重要で自分を中心に全体を包み込むように3次元的な空間把握をしていたそうだ。プレデターから身を守るには常に五感をクリアにしておかないと食われちゃうからね。特に夜は視覚が使えないからなおさらだ。

    ダイアログインザダークでもしばらくすると自分が球状のバリアーの中にいるような感覚になった覚えがある。おそらくゴルゴ13やサムライみたいに、後ろの敵の殺気もすぐに察せられるようになるに、それほど苦労はしないと思う。

    ところで視覚以外の記憶ってあるのだろうか?たとえば嗅覚、匂いの記憶はあるのだろうか?もし痛みの記憶が残っていたら、思い出すたびに苦しまなくちゃならないから大変だ。

    匂いは記憶を引き出す作用は強いらしいが、匂い自体の記憶はどうだろう?

    バラの香り、魚のナマ臭さ、たき火の匂い、シンナーの匂い(笑)。それらを思い出そうとするとその言葉や情景がまず思い浮かんできて、それに連動して匂いがかすかに思い出され、記憶はほんの少し残っているような。。。

    たとえばパクチーの匂いを思い出そうとすると、まずパクチーという言葉からその緑の形とその匂いをかいでいる自分の情景を思いだす。と、気のせいかパクチーの匂いがかすかに感じられる。味の記憶もそれに似ている。当たり前だけどパクチーという言葉を思い描かないとならないから、言葉自体とそれに伴う経験がなければ思い出せない。

    ところで18世紀くらいのロンドンやパリの街並みは絵画や小説などの情報で知る限り、とても活気にあふれ美しい。

    でもその匂いは?昔、あるエッセイで読んだが、さぞ香しい世界だと思いきやトンでもなかったそうだ。

    路地に入れば人の汚物や下水がたまり家畜の糞のヤマ、庶民の部屋は油や体臭、ミントの香りの歯磨きなんてあるわけはなく口臭すさまじく、ゲップや屁も充満し、農家だったらとなりの部屋には家畜もいたろうし、風呂などもたまにしか入らないだろう。香水もコショウも匂い消しから生まれたと言われるほどだ。

    それこそ戦いの後の腐臭もすさまじいのだろうが、ダースベーダーやヨーダの体臭って?スタートレックの異星人バーもなんかすごそう。プリズンブレイクやロストのみんなもかなり臭っただろうね。ベン・ハーやブレイブハートなど歴史映画は匂いがあったら、すごい臨場感がかもしだされる。そんな臭い付き3D映画などあったら誰も見に行けない。

    それこそ匂い付きテレビをみながらの一家の団らんはありえないだろうなぁ。フォックスTVの犯罪捜査もののクライムシーンもかなり見応え、じゃない嗅ぎごたえあるだろうな。

    でも嗅覚疲労と言って他の感覚器官の中でいちばん、すぐに疲れて感度が鈍るようにできているらしい。人の体ってうまくできてる。

    人類と違って犬やクマや蛇など捕食のために嗅覚に頼っている生物の世界はきっと丸くて、いろいろな匂いが点在しているようなスメルワールドが広がっていそうだ。

    小説だと匂いの説明が書けるけど、映像だとその点、無理。やっぱり文字が発達した理由は、すべての感覚をまんべんなく表現できる一番、便利なツールだからだろう。

    これからは音や映像はバッチり記録できるのだから、臭いも記録できるような録臭機なるものが発明されたらぜったい面白い。(もしかしたら専門家の間では商品化されているのかな?)

    次回の個展のご案内です。

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    すどう美術館企画「 神 話 」 ホルモン関根絵画展

    記憶のあいまいさ、多重人格な世界と洗脳された幸福論からの旅立ち

    会場:すどう美術館 http://www.sudoh-art.com
    日時:2012年2月25日(土)〜3月 4日(日) 11:00 〜19:00
    住所:神奈川県小田原市堀之内373

    ※入場無料 2月27日(月)休館 最終日3月4日(日)17:00まで
    ※オープニング パフォーマンス パーティ :
     2月25日(土)15:00〜/入場無料 共演:早乙女和完
     作家在館予定 2月25、26 および 3月3、4日午後

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    人はわかりあえない!
    年初早々、悲観的なタイトルから始まってしまう。。。

    人はわかりあえない!

    現在、哲学や社会学、思想界の共通した見解らしい。

    人類は今日までいろんな「正しいもの・こと」を見つけ出そうとしてきた。特にギリシャ時代からは専門的にそれを探す学問(哲学)も生まれた。

    だいたい哲学者、専門家にかぎらず人はつねに「正しいもの・こと」が大好きで、したがり知りたがり見つけたがりする。「正しいもの・こと」は時代によって変わるにもかかわらず。

    自分自身すら、自分は正しいのだ〜、と日に何回もつぶやいているような気がする。

    人はなぜ正しいことを求めるんだろう。それは、不安を軽減するための安全弁?自分の存在意義の確認作業?つまり人は性悪説?

    太宰治じゃないが、生まれて来てスミマセン!でも少しでも正しいことをしているから生きてていいよねって。。。

    昔は神がいて「正しいもの・こと」をおしえてくれた。ところが神とは違う真理があるということになった。でも時代を経るにつれ、よく考えると、それらすべてを認めているのはどうも自分の思考らしい。

    その自分の思考ってよく考えると、言葉が支配しているらしい。そのうえ人それぞれの言葉が指し示す意味は人によって違う、どうも各個人が持つ意味は決して一致しない、という見解に行き着く。

    だったらどうやって正しいことを見つけたらいいんだ!

    それが今、コミュニケーション的転回という言葉で現状を表現している。それは簡単に言うと、人はわかりあえることは重要ではない。差はあっても合意にいたることを重視する。

    わかりあえる!なんて幻想を目標にして時間と感情を無駄使いせず、わかりあえない、という前提に立つことによって「正しいこと・もの」が現れてくるじゃないだろうか?と先端思想家たちは言うのだ。

    もちろんその道の先覚者はもっと緻密に分析し専門的に証明しようとするのだから簡単には説明は出来ないし正直、自分の脳みそがついていけないけど、少しホッとする。

    今の世界にも自分にとっても、そのほうが都合がいい。

    いろいろな行き違い、争い、不調和、対立、悲劇が何度も起こって、そのたびに人間は学習能力がないバカな生き物と情けなくなることが多い。でもお互い「正しいこと・もの」を理解する時の意味が違うし、わかりあえないのだから当然の成り行きだったのだ。

    じゃなかったらあんな戦争みたいなことは二度としないはずだ。

    また、意味は、そのコミュニケーションという場において変容・生成・創造される、そうだ。難しい考え方だけど。

    ところでジャック・ランシェールという社会学者が「民主主義への憎悪」で述べているフレーズを孫引きするが、とてもハッとさせられた。

    「民主主義とはまさに、人間社会を構造化しているすべての関係を逆転することである。統治者は被統治者のようになり、被統治者は統治者のようになる。女性は男性と対等になり、父親は子供を対等に扱う慣習がつく。市民権を持たない外国人は市民と対等になる〜略」

    この部分だけみるとかなり過激に聞こえるが、イデオロギーや愛国心はワキに置いておいて、自分なりに合点がいく。

    私たち日本人は敗戦から発展への移行が急すぎた。つまり民主主義をよく知らないうちに一人前になった気がしているだけなのだ。この辺は専門家がポツダム民主主義とか敗戦民主主義とか、いろいろ批判はある。

    日本人は元来、民主主義は経験していないし戦後、急にGHQに言われて民主主義になったにすぎない。大正デモクラシーと言うのがあったが日本には天皇という存在があって、決してイギリスや他の共和国の王様女王様のような存在ではない。戦前の天皇暗殺計画のようなこともあったが、問題なのは個人個人の精神に焼き付いたタブーの烙印の方が根深い。

    そもそも民主主義は弱者と支配者層の権力闘争の結果だ。日本の場合は支配者層同志の闘争で一般市民が自力で民主主義になるチャンスも期待もなかった。それがなんかウヤムヤの中、敗戦の焼け野原から数年で復興し、気がつけば贅沢になったものだからいいとこ取りだけして、民主主義の本質や負の部分なんて知る由もなし。

    ところがこうやって世界との距離もグッと狭くなり、不景気になり、いろいろな不都合な問題が出始めると、今まで民主主義だと信じていた我々が、この格差は何だ!政府や官僚の私利私欲な政策や陰謀、スキャンダルなどに不満をぶつけ始める。

    例えば、ネットのスレッドやコメントから伺える世相に限って言えば、まるでみんな統治者のような勢いだ。ここでランシェールの言葉がガツンと効く。つまり増税野田与党、小沢裁判、民主党のマニフェスト無視、検察体質などなど個人的にも納得ならないが、ふと統治者になったつもりになってしまっている自分がいることに気づかされる。

    なぜなら民主主義は国民一人の意見も尊重されるはずだから!清き一票を投じているから、税金を払っているから、と。

    民主主義とは当たり前だけど相手を裁くためにあるのではない。まして自分の正しさを照会するモノサシでもない。国民全てがうまく社会の括りの中で効果的経済的利便的に運営するためのひとつのシステムにすぎない(幻想だけど)。自分の不満に思う相手も自分と同様な権利があるのは当然のこと。意見の齟齬は敵対することではない。

    ところがネットが発達してどこからでも、誰でも好きなことを発信でき、一人一人の知っていることや興味のあることだけがドドドッと殺到することになった。

    まさに今これを書いている自分も同じことを繰り返している。好きなこと興味のあること知っていることを、正しいことと信じ発信している。ほんの僅かに、賛同と意見の一致を夢見て、、、。

    そんな行為で発せられた何億何兆という情報や知識、見解が毎秒毎秒、無作為にデータベース化されている。「正しいもの・こと」とは万人の一致などはまったく期待もされず、各個人の「正しいもの・こと」がたくさんある状態になってしまったのだ。逆ピラミッド構造な世界だ。

    ところで北朝鮮のドキュメンタリーをナショナルジオグラフィックでやっていた。ここの世界はメディアを通じて知る限りにおいては、まったくのピラミッド構造で頂点に君臨する正しいものはひとつだけ。歴代指導者だ。

    レポーターが、どうすれば人はあんな精神構造になれるのかわからない、と驚いていた。でも、お互い様じゃないか?!北では90年代後半の飢饉のとき40%の子供が餓死したとまで言うが、資本主義社会だって貧困による餓死者の絶対数ではもっといる。

    そう思えば、思想家たちがいろいろ説を唱えるが、結局、今のグローバルスタンダードな社会ではお金がピラミッドの頂上にあるとも言えるけど、それを言っちゃ〜おしまいだぁ。

    でも哲学者がお金という意識や実存をもっと思考や思想の中心にすえた転回を唱えても、おかしくない気がする。

    じゃあ、これからはどうなるのか?どうすればいいのか?といろいろ考えながら自分なりの表現手段を模索する日々。

    なんかこのまま堂々巡りで終わってしまいそうだ(笑)

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    参考図書:動物化するポストモダン(東浩紀著 講談社現代新書)、ゲーム的リアリズムの誕生(東浩紀著 講談社現代新書)、現代思想のコミュニケーション的転回(高田典明著 ちくま書房)、もうひとつの愛を哲学する(アラン・ド・ボトン著 安引宏訳 集英社)
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    2012
    あけましておめでとうございます。
    本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

    「新年あけまして」と新年をつけるのは文法上正しくないと知ったのはつい最近。

    明けるのは旧年だから、新年があけるのは可笑しい、というのが正しい理由だそうだ。

    自分の勉強不足なせいでもあるが、昔はそんなことを言われた覚えも学校で注意されたこともなかった。ネットが隆盛になって知ったような気がする。

    ところで昨年から先鋭なる批評家 東浩紀にハマッている。

    評論や批評家で話題になったり売れたりする人はだいたい文章がわかりやすい。それは内容のわかりやすさと言うよりも、話の筋立てがパズルがうまくハマッていくようなサクサクしたリズム感がある。

    東氏はポストモダンのパラダイムを軸に社会学、哲学、民俗学的嗅覚をもってオタク文化やゲーム、アニメなどに鍵穴を見つけ出し施錠をはずし、現在の日本人の精神構造や心理状態を解き明かそうとする。

    彼の評論から察するにパソコンやインターネット、ゲームなどでコミュニケーションの方法が変わり無意識ながらも人間社会の価値観の変化を浮き彫りにしようと試みる。

    今年も引き続き、彼らの論説も参考にしながらリアリズムの正体を探し求めていきたい。

    なぜならリアリズムこそが表現の基礎だと思っているからだ。リアリズムをどう捉えているのか、現在のリアリズムは、宇宙ステーションが回転しながら重力を作るように、現在の社会は何をリアリズムの基軸にして回っているのか?!

    プラトンが詩(ポエム)と哲学を分離し、哲学は人類の真実を探求する学問として現在に続いているという。

    最初は神が中心にあり人間は人間だと認識していなかった、神の子だったのだ。神を中心に回っていた。それがルネッサンス頃から人間に軸に変わって来た。そして、この世には絶対真理があると信じられていたのが、それは各人の認識の問題に転回した。つまり自分はそれをどう思うか、に重点がおかれるようになる。

    それから現在に至るまで言語、認識、コミュニケーションとつねに中心が移ってきている。

    例えば、過去の美術作品を追って見てみるとよくわかる。最初はモチーフは神を中心にしていたのが、ルネッサンスが始まると、ジョットが人間を物語に登場させ、あっという間に権力者の肖像画が雨後の竹の子のごとく現れる。

    目に映るままに描くことがリアリズムだったのが印象派から個人が受け取るままが真実(リアリズム)だ、とのことで近代絵画の発展につながっていく。

    後期印象派、フォービズム、キュービズム、ダダ、ネオダダ、コンセプチュアル、ポップなどなど。こういう様式の変遷は哲学のシーケンスとは同時進行で進む。

    今ではボードリヤールの提言したシミュラークルな世界が疑問もなく受け入れられているのだ。マンガ、アニメなどの空想の世界、かつてのシューレアリズムだった世界が実世界にまでなった。オリジナルの存在しないコピーのオリジナリティ。

    お気に入りのタイプの女の子に惚れることより、猫耳やフリルに萌える、そこに感情のスイッチが集約される世界観。そして自分の好きなパーツをネットで集めて組み直して自分のオリジナルに仕立て上げて愛でむリア充。

    高田典明がそれをコミュニケーション的転回といい新しい切り口を指し示す。

    例えば現代美術系ギャラリーや展覧会がエマージェントアートとかダーティリアリズムと言うような個人の心象風景やかわいいキャラクターの作品であふれることになる。つまり自分がカワイイという感情を、不特定多数のみんなに判断をゆだねる快感=リアリズムがギャラリーにあふれているのだ。

    それとデータベース化という言葉もよく聞くが、アーティストはある意味、萌えるパーツのデータベース作りに励んでいる、それがアートだ、とも聞こえてきそうだ。

    ここでいうコミュニケーションとは相互理解のキャッチボールではなくてコミュニケーションをとってもらう相手本意の世界観がリアリズムの軸になってきている、という意味らしい。

    しかしそういう世界観も変わって来ている。リアリズムはプレートテクトニクスのように静かに移行している。

    その動きはあまりにも緩慢だから時計の分針のごとくよく見えない、認識出来ない。富士山の裾野におりて初めて全望できるのに似ている。
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