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    • Contemporary Art 2.012展
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  • アンデス中島展告知です
    今日から北欧を中心に活躍する現代美術家中島由夫氏のご子息アンデス中島氏の作品展がはじまった。

    場所は表参道にあるギャラリーコンセプト21。アンデスさんの作品と父・中島由夫氏、ミロ、シャガール、マッタ、ダリ、フォンタナ、ローゼンソーンのリトグラフも展示。

    お近くにお越しの際、お時間がありましたら、お立ち寄りください。

    アンデス中島&Swedish Collector Art Work 展
    日時:2012年1月18日〜24日、11:00~19:00(最終日15:00)
    場所:ギャラリーコンセプト21/港区北青山3-15-16
    http://www.g-concept21.com

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    引き続き、大丸京都店で開催されマス。

    アンデス中島 油絵展
    日時:2012年2月1日〜7日、10:00~20:00(最終日17:00)
    場所:大丸京都店6階アートサロンESPACE KYOTO/京都市下京区四条高倉西入 http://www.daimaru.co.jp
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    匂いの記憶
    人間の五感 — 視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚。

    その中でいちばん重要な感覚は?と問いたら、視覚と答える人がほとんどだろう。

    人間の感覚を補う能力は強力で、ひとつの感覚が機能不全をおこすと、急に他の感覚が研ぎ澄まされ、代用しようとする。

    これまでに2回ほど、ダイアログ・イン・ザ・ダークというイベントを体験した。

    それはまったくの真っ暗闇、薄明かりすらなく目を開けていても真っ暗で、もはや目を開けているという感覚すら感じられない。そんな仮設空間を数人のグループで各人、杖を使い全盲のガイドの方に先導されながら一時間半ほど散策する体験型アート作品だ。

    これはドイツの哲学者アンドレアス・ハイネッケ博士の発案で1989年以来、世界30カ国以上で開催されている。現在、日本でも開催中 http://www.dialoginthedark.com/

    最初に体験したときは大変だった。目の前に広がるブラックホールのようなまっ暗闇へガイドさんの声を頼りに進んでいくと、何とも言えないパニック症候群のような嫌〜な恐怖心に全身が震え始める。

    ヤバっ、怖い!逃げ出したい! スタッフさん曰く、体験出来ず帰る方もいるという。しかし自分は高い入場料払っているし!と自らをホルモンじゃない、駆り立ててトッカ〜ン進め〜!

    落ち着きが戻って余裕が出てくると、どう思っても真っ暗で何も見えないのだが、なんか見えているような感覚になってくる。

    無意識に視覚以外の感覚を総動員しているのがヒシヒシ感じられ、音がとてもクリアになりだし、すべての肌がとても敏感になっているのだ。それこそ幽体離脱じゃないが、肉体が自分の意思と関係なく一生懸命働いてるぞ〜っていう感覚。人間は、肉体に自分という別の霊的存在(エネルギー?)が宿っている、と思わざるを得ないくらいのとても不思議な感動が得られた。

    一時間もすると見えている気になるからスゴイ!脳内では視覚以外の情報で自分なりの風景と状況を想像している。杖から伝わってくる触感もリアルに映像化され、もし会場が急に明るくなったら、自分の描いているイメージの違いに驚かされるに違いない。

    アルタミラなど古代壁画を研究しているある学者に言わせると、文字が発明されるまで人類は、水平や垂直などへの関心は低かった。洞窟に壁画を描く際、構図的な意識はなかったらしい。人類は文字を書き記すことによって水平や垂直といった空間把握と概念が築かれてきたと言う。

    今や人類は水平・垂直が重要になってすべて線的に捉える傾向があるが、原始時代は視覚より聴覚が重要で自分を中心に全体を包み込むように3次元的な空間把握をしていたそうだ。プレデターから身を守るには常に五感をクリアにしておかないと食われちゃうからね。特に夜は視覚が使えないからなおさらだ。

    ダイアログインザダークでもしばらくすると自分が球状のバリアーの中にいるような感覚になった覚えがある。おそらくゴルゴ13やサムライみたいに、後ろの敵の殺気もすぐに察せられるようになるに、それほど苦労はしないと思う。

    ところで視覚以外の記憶ってあるのだろうか?たとえば嗅覚、匂いの記憶はあるのだろうか?もし痛みの記憶が残っていたら、思い出すたびに苦しまなくちゃならないから大変だ。

    匂いは記憶を引き出す作用は強いらしいが、匂い自体の記憶はどうだろう?

    バラの香り、魚のナマ臭さ、たき火の匂い、シンナーの匂い(笑)。それらを思い出そうとするとその言葉や情景がまず思い浮かんできて、それに連動して匂いがかすかに思い出され、記憶はほんの少し残っているような。。。

    たとえばパクチーの匂いを思い出そうとすると、まずパクチーという言葉からその緑の形とその匂いをかいでいる自分の情景を思いだす。と、気のせいかパクチーの匂いがかすかに感じられる。味の記憶もそれに似ている。当たり前だけどパクチーという言葉を思い描かないとならないから、言葉自体とそれに伴う経験がなければ思い出せない。

    ところで18世紀くらいのロンドンやパリの街並みは絵画や小説などの情報で知る限り、とても活気にあふれ美しい。

    でもその匂いは?昔、あるエッセイで読んだが、さぞ香しい世界だと思いきやトンでもなかったそうだ。

    路地に入れば人の汚物や下水がたまり家畜の糞のヤマ、庶民の部屋は油や体臭、ミントの香りの歯磨きなんてあるわけはなく口臭すさまじく、ゲップや屁も充満し、農家だったらとなりの部屋には家畜もいたろうし、風呂などもたまにしか入らないだろう。香水もコショウも匂い消しから生まれたと言われるほどだ。

    それこそ戦いの後の腐臭もすさまじいのだろうが、ダースベーダーやヨーダの体臭って?スタートレックの異星人バーもなんかすごそう。プリズンブレイクやロストのみんなもかなり臭っただろうね。ベン・ハーやブレイブハートなど歴史映画は匂いがあったら、すごい臨場感がかもしだされる。そんな臭い付き3D映画などあったら誰も見に行けない。

    それこそ匂い付きテレビをみながらの一家の団らんはありえないだろうなぁ。フォックスTVの犯罪捜査もののクライムシーンもかなり見応え、じゃない嗅ぎごたえあるだろうな。

    でも嗅覚疲労と言って他の感覚器官の中でいちばん、すぐに疲れて感度が鈍るようにできているらしい。人の体ってうまくできてる。

    人類と違って犬やクマや蛇など捕食のために嗅覚に頼っている生物の世界はきっと丸くて、いろいろな匂いが点在しているようなスメルワールドが広がっていそうだ。

    小説だと匂いの説明が書けるけど、映像だとその点、無理。やっぱり文字が発達した理由は、すべての感覚をまんべんなく表現できる一番、便利なツールだからだろう。

    これからは音や映像はバッチり記録できるのだから、臭いも記録できるような録臭機なるものが発明されたらぜったい面白い。(もしかしたら専門家の間では商品化されているのかな?)

    次回の個展のご案内です。

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    すどう美術館企画「 神 話 」 ホルモン関根絵画展

    記憶のあいまいさ、多重人格な世界と洗脳された幸福論からの旅立ち

    会場:すどう美術館 http://www.sudoh-art.com
    日時:2012年2月25日(土)〜3月 4日(日) 11:00 〜19:00
    住所:神奈川県小田原市堀之内373

    ※入場無料 2月27日(月)休館 最終日3月4日(日)17:00まで
    ※オープニング パフォーマンス パーティ :
     2月25日(土)15:00〜/入場無料 共演:早乙女和完
     作家在館予定 2月25、26 および 3月3、4日午後

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    人はわかりあえない!
    年初早々、悲観的なタイトルから始まってしまう。。。

    人はわかりあえない!

    現在、哲学や社会学、思想界の共通した見解らしい。

    人類は今日までいろんな「正しいもの・こと」を見つけ出そうとしてきた。特にギリシャ時代からは専門的にそれを探す学問(哲学)も生まれた。

    だいたい哲学者、専門家にかぎらず人はつねに「正しいもの・こと」が大好きで、したがり知りたがり見つけたがりする。「正しいもの・こと」は時代によって変わるにもかかわらず。

    自分自身すら、自分は正しいのだ〜、と日に何回もつぶやいているような気がする。

    人はなぜ正しいことを求めるんだろう。それは、不安を軽減するための安全弁?自分の存在意義の確認作業?つまり人は性悪説?

    太宰治じゃないが、生まれて来てスミマセン!でも少しでも正しいことをしているから生きてていいよねって。。。

    昔は神がいて「正しいもの・こと」をおしえてくれた。ところが神とは違う真理があるということになった。でも時代を経るにつれ、よく考えると、それらすべてを認めているのはどうも自分の思考らしい。

    その自分の思考ってよく考えると、言葉が支配しているらしい。そのうえ人それぞれの言葉が指し示す意味は人によって違う、どうも各個人が持つ意味は決して一致しない、という見解に行き着く。

    だったらどうやって正しいことを見つけたらいいんだ!

    それが今、コミュニケーション的転回という言葉で現状を表現している。それは簡単に言うと、人はわかりあえることは重要ではない。差はあっても合意にいたることを重視する。

    わかりあえる!なんて幻想を目標にして時間と感情を無駄使いせず、わかりあえない、という前提に立つことによって「正しいこと・もの」が現れてくるじゃないだろうか?と先端思想家たちは言うのだ。

    もちろんその道の先覚者はもっと緻密に分析し専門的に証明しようとするのだから簡単には説明は出来ないし正直、自分の脳みそがついていけないけど、少しホッとする。

    今の世界にも自分にとっても、そのほうが都合がいい。

    いろいろな行き違い、争い、不調和、対立、悲劇が何度も起こって、そのたびに人間は学習能力がないバカな生き物と情けなくなることが多い。でもお互い「正しいこと・もの」を理解する時の意味が違うし、わかりあえないのだから当然の成り行きだったのだ。

    じゃなかったらあんな戦争みたいなことは二度としないはずだ。

    また、意味は、そのコミュニケーションという場において変容・生成・創造される、そうだ。難しい考え方だけど。

    ところでジャック・ランシェールという社会学者が「民主主義への憎悪」で述べているフレーズを孫引きするが、とてもハッとさせられた。

    「民主主義とはまさに、人間社会を構造化しているすべての関係を逆転することである。統治者は被統治者のようになり、被統治者は統治者のようになる。女性は男性と対等になり、父親は子供を対等に扱う慣習がつく。市民権を持たない外国人は市民と対等になる〜略」

    この部分だけみるとかなり過激に聞こえるが、イデオロギーや愛国心はワキに置いておいて、自分なりに合点がいく。

    私たち日本人は敗戦から発展への移行が急すぎた。つまり民主主義をよく知らないうちに一人前になった気がしているだけなのだ。この辺は専門家がポツダム民主主義とか敗戦民主主義とか、いろいろ批判はある。

    日本人は元来、民主主義は経験していないし戦後、急にGHQに言われて民主主義になったにすぎない。大正デモクラシーと言うのがあったが日本には天皇という存在があって、決してイギリスや他の共和国の王様女王様のような存在ではない。戦前の天皇暗殺計画のようなこともあったが、問題なのは個人個人の精神に焼き付いたタブーの烙印の方が根深い。

    そもそも民主主義は弱者と支配者層の権力闘争の結果だ。日本の場合は支配者層同志の闘争で一般市民が自力で民主主義になるチャンスも期待もなかった。それがなんかウヤムヤの中、敗戦の焼け野原から数年で復興し、気がつけば贅沢になったものだからいいとこ取りだけして、民主主義の本質や負の部分なんて知る由もなし。

    ところがこうやって世界との距離もグッと狭くなり、不景気になり、いろいろな不都合な問題が出始めると、今まで民主主義だと信じていた我々が、この格差は何だ!政府や官僚の私利私欲な政策や陰謀、スキャンダルなどに不満をぶつけ始める。

    例えば、ネットのスレッドやコメントから伺える世相に限って言えば、まるでみんな統治者のような勢いだ。ここでランシェールの言葉がガツンと効く。つまり増税野田与党、小沢裁判、民主党のマニフェスト無視、検察体質などなど個人的にも納得ならないが、ふと統治者になったつもりになってしまっている自分がいることに気づかされる。

    なぜなら民主主義は国民一人の意見も尊重されるはずだから!清き一票を投じているから、税金を払っているから、と。

    民主主義とは当たり前だけど相手を裁くためにあるのではない。まして自分の正しさを照会するモノサシでもない。国民全てがうまく社会の括りの中で効果的経済的利便的に運営するためのひとつのシステムにすぎない(幻想だけど)。自分の不満に思う相手も自分と同様な権利があるのは当然のこと。意見の齟齬は敵対することではない。

    ところがネットが発達してどこからでも、誰でも好きなことを発信でき、一人一人の知っていることや興味のあることだけがドドドッと殺到することになった。

    まさに今これを書いている自分も同じことを繰り返している。好きなこと興味のあること知っていることを、正しいことと信じ発信している。ほんの僅かに、賛同と意見の一致を夢見て、、、。

    そんな行為で発せられた何億何兆という情報や知識、見解が毎秒毎秒、無作為にデータベース化されている。「正しいもの・こと」とは万人の一致などはまったく期待もされず、各個人の「正しいもの・こと」がたくさんある状態になってしまったのだ。逆ピラミッド構造な世界だ。

    ところで北朝鮮のドキュメンタリーをナショナルジオグラフィックでやっていた。ここの世界はメディアを通じて知る限りにおいては、まったくのピラミッド構造で頂点に君臨する正しいものはひとつだけ。歴代指導者だ。

    レポーターが、どうすれば人はあんな精神構造になれるのかわからない、と驚いていた。でも、お互い様じゃないか?!北では90年代後半の飢饉のとき40%の子供が餓死したとまで言うが、資本主義社会だって貧困による餓死者の絶対数ではもっといる。

    そう思えば、思想家たちがいろいろ説を唱えるが、結局、今のグローバルスタンダードな社会ではお金がピラミッドの頂上にあるとも言えるけど、それを言っちゃ〜おしまいだぁ。

    でも哲学者がお金という意識や実存をもっと思考や思想の中心にすえた転回を唱えても、おかしくない気がする。

    じゃあ、これからはどうなるのか?どうすればいいのか?といろいろ考えながら自分なりの表現手段を模索する日々。

    なんかこのまま堂々巡りで終わってしまいそうだ(笑)

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    参考図書:動物化するポストモダン(東浩紀著 講談社現代新書)、ゲーム的リアリズムの誕生(東浩紀著 講談社現代新書)、現代思想のコミュニケーション的転回(高田典明著 ちくま書房)、もうひとつの愛を哲学する(アラン・ド・ボトン著 安引宏訳 集英社)
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    2012
    あけましておめでとうございます。
    本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

    「新年あけまして」と新年をつけるのは文法上正しくないと知ったのはつい最近。

    明けるのは旧年だから、新年があけるのは可笑しい、というのが正しい理由だそうだ。

    自分の勉強不足なせいでもあるが、昔はそんなことを言われた覚えも学校で注意されたこともなかった。ネットが隆盛になって知ったような気がする。

    ところで昨年から先鋭なる批評家 東浩紀にハマッている。

    評論や批評家で話題になったり売れたりする人はだいたい文章がわかりやすい。それは内容のわかりやすさと言うよりも、話の筋立てがパズルがうまくハマッていくようなサクサクしたリズム感がある。

    東氏はポストモダンのパラダイムを軸に社会学、哲学、民俗学的嗅覚をもってオタク文化やゲーム、アニメなどに鍵穴を見つけ出し施錠をはずし、現在の日本人の精神構造や心理状態を解き明かそうとする。

    彼の評論から察するにパソコンやインターネット、ゲームなどでコミュニケーションの方法が変わり無意識ながらも人間社会の価値観の変化を浮き彫りにしようと試みる。

    今年も引き続き、彼らの論説も参考にしながらリアリズムの正体を探し求めていきたい。

    なぜならリアリズムこそが表現の基礎だと思っているからだ。リアリズムをどう捉えているのか、現在のリアリズムは、宇宙ステーションが回転しながら重力を作るように、現在の社会は何をリアリズムの基軸にして回っているのか?!

    プラトンが詩(ポエム)と哲学を分離し、哲学は人類の真実を探求する学問として現在に続いているという。

    最初は神が中心にあり人間は人間だと認識していなかった、神の子だったのだ。神を中心に回っていた。それがルネッサンス頃から人間に軸に変わって来た。そして、この世には絶対真理があると信じられていたのが、それは各人の認識の問題に転回した。つまり自分はそれをどう思うか、に重点がおかれるようになる。

    それから現在に至るまで言語、認識、コミュニケーションとつねに中心が移ってきている。

    例えば、過去の美術作品を追って見てみるとよくわかる。最初はモチーフは神を中心にしていたのが、ルネッサンスが始まると、ジョットが人間を物語に登場させ、あっという間に権力者の肖像画が雨後の竹の子のごとく現れる。

    目に映るままに描くことがリアリズムだったのが印象派から個人が受け取るままが真実(リアリズム)だ、とのことで近代絵画の発展につながっていく。

    後期印象派、フォービズム、キュービズム、ダダ、ネオダダ、コンセプチュアル、ポップなどなど。こういう様式の変遷は哲学のシーケンスとは同時進行で進む。

    今ではボードリヤールの提言したシミュラークルな世界が疑問もなく受け入れられているのだ。マンガ、アニメなどの空想の世界、かつてのシューレアリズムだった世界が実世界にまでなった。オリジナルの存在しないコピーのオリジナリティ。

    お気に入りのタイプの女の子に惚れることより、猫耳やフリルに萌える、そこに感情のスイッチが集約される世界観。そして自分の好きなパーツをネットで集めて組み直して自分のオリジナルに仕立て上げて愛でむリア充。

    高田典明がそれをコミュニケーション的転回といい新しい切り口を指し示す。

    例えば現代美術系ギャラリーや展覧会がエマージェントアートとかダーティリアリズムと言うような個人の心象風景やかわいいキャラクターの作品であふれることになる。つまり自分がカワイイという感情を、不特定多数のみんなに判断をゆだねる快感=リアリズムがギャラリーにあふれているのだ。

    それとデータベース化という言葉もよく聞くが、アーティストはある意味、萌えるパーツのデータベース作りに励んでいる、それがアートだ、とも聞こえてきそうだ。

    ここでいうコミュニケーションとは相互理解のキャッチボールではなくてコミュニケーションをとってもらう相手本意の世界観がリアリズムの軸になってきている、という意味らしい。

    しかしそういう世界観も変わって来ている。リアリズムはプレートテクトニクスのように静かに移行している。

    その動きはあまりにも緩慢だから時計の分針のごとくよく見えない、認識出来ない。富士山の裾野におりて初めて全望できるのに似ている。
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    2011年が終わる〜
    2011年が終わる〜!

    震災および福一で被災された皆様にはあらためて心よりお見舞い申し上げます。

    正直言って今年は原発は言わずもがな311のトラウマに悩まされ続けた一年だった。

    来年2012年は少しはマシになってと心底、願う!

    でもスウェーデンでの個展では北欧の空気、アートな環境、人々の温かさなど、あらためて接することが出来、とてもいい経験ができた。

    来年秋には3年前にグループ展で呼んでくれたブダペストのオペラギャラリーで個展予定。それとセルビアとの国際交流展が決まっている。他にも壁画制作、企画中プロジェクトも多数あるので、どうなるか楽しみだ。

    とにかく座右の銘ではないが、我が道を信じていけば、自ずと道は開ける!しかしそうは言っても、相変わらず生活苦は続いているから、来年は何とかしないと!!!!

    ところで、最近、言葉の意味とか言葉の機能性とかコミュニケーションの不調和というのか言葉の一人歩き的な雰囲気が気になって仕方ない。

    それはインターネットという新しいコミュニケーション手段に起因することは明白だ。

    たぶん1990年頃だっただろうか、ウエッブをやり始めて受けたショックがいまだ鮮明に脳裏に浮かぶ。

    他人の日記が読める?!すごいショックを受けた。なんかとっても新鮮な気持ちだった。

    それが今ではパブリックがすべて個人の日記みたいになってしまって驚いている。天地無用な法則がひっくり返ってしまった。そういう自分も日記みたいな私的感想をブログで披露しているのだから。

    リチャード・ローティというアメリカの哲学者が、人間の文化は物語なしには成り立たない、と言う。

    というと東浩紀は、ポストモダンとはもはや大きな物語が価値喪失した時代である、と言う。

    ネットのブログでもスレッドでもコメントでも議論を期待しながら、それが成り立たないこともうすうす感じている。それでも発信者は満足なのだ。(自分のことか?!)

    コミュニケーションとは相互理解みたいな理想を宿しているけど、もはや相互理解といいながら、各人の発する言葉の意味や説明が、おのおの一致していないこともわかってきた。

    それも大きな物語の喪失が関係しているのだろう。

    チャットを経験した人なら如実に感じるはずだ。チャットは話している疑似体験みたいな状況だから、相手の言葉に振り回される。文章を読むのとは違って、生々しく言葉に感情移入しやすい。すると相手の言葉の真意を読むことがとても難しくなるのだ。

    だから齟齬が生じたら文字を打ち込むことが面倒になって思考も追いつかなくなって、後ろめたさを保ちながら無視するか、ラインを切るしかない。

    チャットに限らずポストモダンなコミュニケーションはそんな状況ではないだろうか?

    言葉の地位喪失と機能性の欠如、つまり言葉を処理するスピードが押し寄せてくる情報量に間に合わない、コミュニケーションの進度に追いつかない。

    飛躍するけど、だから現代美術に人が集まりだしているのではないだろうか?

    80年代、自分が発表をし始めた頃は、現代美術なんて新興宗教家みたいに胡散臭くて(今でも変わらないけど)、観客なんてほんとうに少なかった。まして作品が売れるなんて驚天動地。

    ここでちょっと話がずれるけど今の心情によると、新興宗教かみたいに胡散臭い、とすんなり表現できない自分がいるのだ。これは昔ではあり得なかった。

    つまり新興宗教といっても、胡散臭くないのもあるかもしれない、という疑問や反論も予想してしまう。一応、ブログで不特定多数に公開する以上、言い訳(エクスキューズ)も考えてしまう思考回路になっているのだ。

    これがネット社会に組み込まれてしまった自分、洗脳されたのかはわからないが、絶対的価値観の喪失につながっている。またこれを断言できないあいまいな自分もいるデフレスパイラル。

    で、、、、話がずれたけど、昔は一人考え事をしたり、静かにアートを鑑賞したいときなど、近代美術館や都美館の企画展示を見に行けば、大きな部屋でのんびり過ごすことが出来た。

    ところが今ではありえない。ちょっと大きな展覧会に行けば普通の日のみんなが一生懸命、働いているときでもかなりの人盛りだし、銀座のはずれのギャラリーに行っても少しいれば誰かがやってくる。それに併せて作品も売れるようになったことは実に驚きだし、それはそれでとってもうれしい。

    観客動員数だけで見れば、日本は世界一だそうだ。ただしササビーなど公になっている現代美術の販売総額は韓国やトルコよりも低い。

    とにかく人間は何かにすがりたいし、存在の意味を知りたがるのだ。よく鏡という表現を使うけど常に自分を映す鏡がないとちゃんと立っていられない。それが社会性で生きてきた人類という生物なのだろう。

    特に現在ではポストモダンな絶対的価値観がなくなった以上、自分でそれを作り出すしかないのだ。

    現代美術はそんな不可視な世界を読み取り、少しはこんがらがった現実を整理して安心させてあげる役目はあると信じている。

    常に行き詰まってはいる現実だろうけど、こんな行き詰まった世界に少しでも希望を見いだす道筋を示す、仕事だとも思っている。

    ここでローティの言う物語に戻ると、大きな物語ではなくて、あいまいさが全体を包んでいるほんわかした真実。これからはそんなふうに思想に物語を使わないと、ガチガチに見えないルールに縛られた現状を、するりと抜けて逃げられないということと理解している。

    空気感で感覚的に総合判断するコミュニケーション社会。言葉による意思疎通は角がたって疲れて仕方ないし処理する情報量が増えすぎた。

    空気が読めない、と以前、流行ったけど、それが現実なんだろう、言葉だけではリズムが遅すぎて間ぬけ、ということなのだろう。

    というような分析や解説でしたり顔の自分、分析や解説などで納得することにオーガズムを得る年代?もしくはそういう種類の人間はもはや過去の行動形式人種なんだとも思う。

    それは大きな物語が存在していた西洋哲学の影響のもと、文化人なり知識人なりの真理の探究者が人間の発展に寄与するのだ、という優越感を盲信しそれに感化され、自己満足しているに過ぎないのかもしれない。

    現在の我々(人類)もしくは社会はもっと違う切り口、無数の小さな物語で進んでいる。今の時代はそれぞれの小さな物語集団が独自に成り立っている。人口が多いのでその小さな物語サークル内だけでも十分、自立できるのだ。だからあえて、各々が友好関係を築くように接近したり情報交換するように外交的である必要もない。

    その結果、マスコミからドカ〜ンっと新しい文化が生まれることもなくなった。ある意味健全なのかも知れない。
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