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    • Contemporary Art 2.012展
      記事掲載
















  • 人はわかりあえない!
    年初早々、悲観的なタイトルから始まってしまう。。。

    人はわかりあえない!

    現在、哲学や社会学、思想界の共通した見解らしい。

    人類は今日までいろんな「正しいもの・こと」を見つけ出そうとしてきた。特にギリシャ時代からは専門的にそれを探す学問(哲学)も生まれた。

    だいたい哲学者、専門家にかぎらず人はつねに「正しいもの・こと」が大好きで、したがり知りたがり見つけたがりする。「正しいもの・こと」は時代によって変わるにもかかわらず。

    自分自身すら、自分は正しいのだ〜、と日に何回もつぶやいているような気がする。

    人はなぜ正しいことを求めるんだろう。それは、不安を軽減するための安全弁?自分の存在意義の確認作業?つまり人は性悪説?

    太宰治じゃないが、生まれて来てスミマセン!でも少しでも正しいことをしているから生きてていいよねって。。。

    昔は神がいて「正しいもの・こと」をおしえてくれた。ところが神とは違う真理があるということになった。でも時代を経るにつれ、よく考えると、それらすべてを認めているのはどうも自分の思考らしい。

    その自分の思考ってよく考えると、言葉が支配しているらしい。そのうえ人それぞれの言葉が指し示す意味は人によって違う、どうも各個人が持つ意味は決して一致しない、という見解に行き着く。

    だったらどうやって正しいことを見つけたらいいんだ!

    それが今、コミュニケーション的転回という言葉で現状を表現している。それは簡単に言うと、人はわかりあえることは重要ではない。差はあっても合意にいたることを重視する。

    わかりあえる!なんて幻想を目標にして時間と感情を無駄使いせず、わかりあえない、という前提に立つことによって「正しいこと・もの」が現れてくるじゃないだろうか?と先端思想家たちは言うのだ。

    もちろんその道の先覚者はもっと緻密に分析し専門的に証明しようとするのだから簡単には説明は出来ないし正直、自分の脳みそがついていけないけど、少しホッとする。

    今の世界にも自分にとっても、そのほうが都合がいい。

    いろいろな行き違い、争い、不調和、対立、悲劇が何度も起こって、そのたびに人間は学習能力がないバカな生き物と情けなくなることが多い。でもお互い「正しいこと・もの」を理解する時の意味が違うし、わかりあえないのだから当然の成り行きだったのだ。

    じゃなかったらあんな戦争みたいなことは二度としないはずだ。

    また、意味は、そのコミュニケーションという場において変容・生成・創造される、そうだ。難しい考え方だけど。

    ところでジャック・ランシェールという社会学者が「民主主義への憎悪」で述べているフレーズを孫引きするが、とてもハッとさせられた。

    「民主主義とはまさに、人間社会を構造化しているすべての関係を逆転することである。統治者は被統治者のようになり、被統治者は統治者のようになる。女性は男性と対等になり、父親は子供を対等に扱う慣習がつく。市民権を持たない外国人は市民と対等になる〜略」

    この部分だけみるとかなり過激に聞こえるが、イデオロギーや愛国心はワキに置いておいて、自分なりに合点がいく。

    私たち日本人は敗戦から発展への移行が急すぎた。つまり民主主義をよく知らないうちに一人前になった気がしているだけなのだ。この辺は専門家がポツダム民主主義とか敗戦民主主義とか、いろいろ批判はある。

    日本人は元来、民主主義は経験していないし戦後、急にGHQに言われて民主主義になったにすぎない。大正デモクラシーと言うのがあったが日本には天皇という存在があって、決してイギリスや他の共和国の王様女王様のような存在ではない。戦前の天皇暗殺計画のようなこともあったが、問題なのは個人個人の精神に焼き付いたタブーの烙印の方が根深い。

    そもそも民主主義は弱者と支配者層の権力闘争の結果だ。日本の場合は支配者層同志の闘争で一般市民が自力で民主主義になるチャンスも期待もなかった。それがなんかウヤムヤの中、敗戦の焼け野原から数年で復興し、気がつけば贅沢になったものだからいいとこ取りだけして、民主主義の本質や負の部分なんて知る由もなし。

    ところがこうやって世界との距離もグッと狭くなり、不景気になり、いろいろな不都合な問題が出始めると、今まで民主主義だと信じていた我々が、この格差は何だ!政府や官僚の私利私欲な政策や陰謀、スキャンダルなどに不満をぶつけ始める。

    例えば、ネットのスレッドやコメントから伺える世相に限って言えば、まるでみんな統治者のような勢いだ。ここでランシェールの言葉がガツンと効く。つまり増税野田与党、小沢裁判、民主党のマニフェスト無視、検察体質などなど個人的にも納得ならないが、ふと統治者になったつもりになってしまっている自分がいることに気づかされる。

    なぜなら民主主義は国民一人の意見も尊重されるはずだから!清き一票を投じているから、税金を払っているから、と。

    民主主義とは当たり前だけど相手を裁くためにあるのではない。まして自分の正しさを照会するモノサシでもない。国民全てがうまく社会の括りの中で効果的経済的利便的に運営するためのひとつのシステムにすぎない(幻想だけど)。自分の不満に思う相手も自分と同様な権利があるのは当然のこと。意見の齟齬は敵対することではない。

    ところがネットが発達してどこからでも、誰でも好きなことを発信でき、一人一人の知っていることや興味のあることだけがドドドッと殺到することになった。

    まさに今これを書いている自分も同じことを繰り返している。好きなこと興味のあること知っていることを、正しいことと信じ発信している。ほんの僅かに、賛同と意見の一致を夢見て、、、。

    そんな行為で発せられた何億何兆という情報や知識、見解が毎秒毎秒、無作為にデータベース化されている。「正しいもの・こと」とは万人の一致などはまったく期待もされず、各個人の「正しいもの・こと」がたくさんある状態になってしまったのだ。逆ピラミッド構造な世界だ。

    ところで北朝鮮のドキュメンタリーをナショナルジオグラフィックでやっていた。ここの世界はメディアを通じて知る限りにおいては、まったくのピラミッド構造で頂点に君臨する正しいものはひとつだけ。歴代指導者だ。

    レポーターが、どうすれば人はあんな精神構造になれるのかわからない、と驚いていた。でも、お互い様じゃないか?!北では90年代後半の飢饉のとき40%の子供が餓死したとまで言うが、資本主義社会だって貧困による餓死者の絶対数ではもっといる。

    そう思えば、思想家たちがいろいろ説を唱えるが、結局、今のグローバルスタンダードな社会ではお金がピラミッドの頂上にあるとも言えるけど、それを言っちゃ〜おしまいだぁ。

    でも哲学者がお金という意識や実存をもっと思考や思想の中心にすえた転回を唱えても、おかしくない気がする。

    じゃあ、これからはどうなるのか?どうすればいいのか?といろいろ考えながら自分なりの表現手段を模索する日々。

    なんかこのまま堂々巡りで終わってしまいそうだ(笑)

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    参考図書:動物化するポストモダン(東浩紀著 講談社現代新書)、ゲーム的リアリズムの誕生(東浩紀著 講談社現代新書)、現代思想のコミュニケーション的転回(高田典明著 ちくま書房)、もうひとつの愛を哲学する(アラン・ド・ボトン著 安引宏訳 集英社)
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    2012
    あけましておめでとうございます。
    本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

    「新年あけまして」と新年をつけるのは文法上正しくないと知ったのはつい最近。

    明けるのは旧年だから、新年があけるのは可笑しい、というのが正しい理由だそうだ。

    自分の勉強不足なせいでもあるが、昔はそんなことを言われた覚えも学校で注意されたこともなかった。ネットが隆盛になって知ったような気がする。

    ところで昨年から先鋭なる批評家 東浩紀にハマッている。

    評論や批評家で話題になったり売れたりする人はだいたい文章がわかりやすい。それは内容のわかりやすさと言うよりも、話の筋立てがパズルがうまくハマッていくようなサクサクしたリズム感がある。

    東氏はポストモダンのパラダイムを軸に社会学、哲学、民俗学的嗅覚をもってオタク文化やゲーム、アニメなどに鍵穴を見つけ出し施錠をはずし、現在の日本人の精神構造や心理状態を解き明かそうとする。

    彼の評論から察するにパソコンやインターネット、ゲームなどでコミュニケーションの方法が変わり無意識ながらも人間社会の価値観の変化を浮き彫りにしようと試みる。

    今年も引き続き、彼らの論説も参考にしながらリアリズムの正体を探し求めていきたい。

    なぜならリアリズムこそが表現の基礎だと思っているからだ。リアリズムをどう捉えているのか、現在のリアリズムは、宇宙ステーションが回転しながら重力を作るように、現在の社会は何をリアリズムの基軸にして回っているのか?!

    プラトンが詩(ポエム)と哲学を分離し、哲学は人類の真実を探求する学問として現在に続いているという。

    最初は神が中心にあり人間は人間だと認識していなかった、神の子だったのだ。神を中心に回っていた。それがルネッサンス頃から人間に軸に変わって来た。そして、この世には絶対真理があると信じられていたのが、それは各人の認識の問題に転回した。つまり自分はそれをどう思うか、に重点がおかれるようになる。

    それから現在に至るまで言語、認識、コミュニケーションとつねに中心が移ってきている。

    例えば、過去の美術作品を追って見てみるとよくわかる。最初はモチーフは神を中心にしていたのが、ルネッサンスが始まると、ジョットが人間を物語に登場させ、あっという間に権力者の肖像画が雨後の竹の子のごとく現れる。

    目に映るままに描くことがリアリズムだったのが印象派から個人が受け取るままが真実(リアリズム)だ、とのことで近代絵画の発展につながっていく。

    後期印象派、フォービズム、キュービズム、ダダ、ネオダダ、コンセプチュアル、ポップなどなど。こういう様式の変遷は哲学のシーケンスとは同時進行で進む。

    今ではボードリヤールの提言したシミュラークルな世界が疑問もなく受け入れられているのだ。マンガ、アニメなどの空想の世界、かつてのシューレアリズムだった世界が実世界にまでなった。オリジナルの存在しないコピーのオリジナリティ。

    お気に入りのタイプの女の子に惚れることより、猫耳やフリルに萌える、そこに感情のスイッチが集約される世界観。そして自分の好きなパーツをネットで集めて組み直して自分のオリジナルに仕立て上げて愛でむリア充。

    高田典明がそれをコミュニケーション的転回といい新しい切り口を指し示す。

    例えば現代美術系ギャラリーや展覧会がエマージェントアートとかダーティリアリズムと言うような個人の心象風景やかわいいキャラクターの作品であふれることになる。つまり自分がカワイイという感情を、不特定多数のみんなに判断をゆだねる快感=リアリズムがギャラリーにあふれているのだ。

    それとデータベース化という言葉もよく聞くが、アーティストはある意味、萌えるパーツのデータベース作りに励んでいる、それがアートだ、とも聞こえてきそうだ。

    ここでいうコミュニケーションとは相互理解のキャッチボールではなくてコミュニケーションをとってもらう相手本意の世界観がリアリズムの軸になってきている、という意味らしい。

    しかしそういう世界観も変わって来ている。リアリズムはプレートテクトニクスのように静かに移行している。

    その動きはあまりにも緩慢だから時計の分針のごとくよく見えない、認識出来ない。富士山の裾野におりて初めて全望できるのに似ている。
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    2011年が終わる〜
    2011年が終わる〜!

    震災および福一で被災された皆様にはあらためて心よりお見舞い申し上げます。

    正直言って今年は原発は言わずもがな311のトラウマに悩まされ続けた一年だった。

    来年2012年は少しはマシになってと心底、願う!

    でもスウェーデンでの個展では北欧の空気、アートな環境、人々の温かさなど、あらためて接することが出来、とてもいい経験ができた。

    来年秋には3年前にグループ展で呼んでくれたブダペストのオペラギャラリーで個展予定。それとセルビアとの国際交流展が決まっている。他にも壁画制作、企画中プロジェクトも多数あるので、どうなるか楽しみだ。

    とにかく座右の銘ではないが、我が道を信じていけば、自ずと道は開ける!しかしそうは言っても、相変わらず生活苦は続いているから、来年は何とかしないと!!!!

    ところで、最近、言葉の意味とか言葉の機能性とかコミュニケーションの不調和というのか言葉の一人歩き的な雰囲気が気になって仕方ない。

    それはインターネットという新しいコミュニケーション手段に起因することは明白だ。

    たぶん1990年頃だっただろうか、ウエッブをやり始めて受けたショックがいまだ鮮明に脳裏に浮かぶ。

    他人の日記が読める?!すごいショックを受けた。なんかとっても新鮮な気持ちだった。

    それが今ではパブリックがすべて個人の日記みたいになってしまって驚いている。天地無用な法則がひっくり返ってしまった。そういう自分も日記みたいな私的感想をブログで披露しているのだから。

    リチャード・ローティというアメリカの哲学者が、人間の文化は物語なしには成り立たない、と言う。

    というと東浩紀は、ポストモダンとはもはや大きな物語が価値喪失した時代である、と言う。

    ネットのブログでもスレッドでもコメントでも議論を期待しながら、それが成り立たないこともうすうす感じている。それでも発信者は満足なのだ。(自分のことか?!)

    コミュニケーションとは相互理解みたいな理想を宿しているけど、もはや相互理解といいながら、各人の発する言葉の意味や説明が、おのおの一致していないこともわかってきた。

    それも大きな物語の喪失が関係しているのだろう。

    チャットを経験した人なら如実に感じるはずだ。チャットは話している疑似体験みたいな状況だから、相手の言葉に振り回される。文章を読むのとは違って、生々しく言葉に感情移入しやすい。すると相手の言葉の真意を読むことがとても難しくなるのだ。

    だから齟齬が生じたら文字を打ち込むことが面倒になって思考も追いつかなくなって、後ろめたさを保ちながら無視するか、ラインを切るしかない。

    チャットに限らずポストモダンなコミュニケーションはそんな状況ではないだろうか?

    言葉の地位喪失と機能性の欠如、つまり言葉を処理するスピードが押し寄せてくる情報量に間に合わない、コミュニケーションの進度に追いつかない。

    飛躍するけど、だから現代美術に人が集まりだしているのではないだろうか?

    80年代、自分が発表をし始めた頃は、現代美術なんて新興宗教家みたいに胡散臭くて(今でも変わらないけど)、観客なんてほんとうに少なかった。まして作品が売れるなんて驚天動地。

    ここでちょっと話がずれるけど今の心情によると、新興宗教かみたいに胡散臭い、とすんなり表現できない自分がいるのだ。これは昔ではあり得なかった。

    つまり新興宗教といっても、胡散臭くないのもあるかもしれない、という疑問や反論も予想してしまう。一応、ブログで不特定多数に公開する以上、言い訳(エクスキューズ)も考えてしまう思考回路になっているのだ。

    これがネット社会に組み込まれてしまった自分、洗脳されたのかはわからないが、絶対的価値観の喪失につながっている。またこれを断言できないあいまいな自分もいるデフレスパイラル。

    で、、、、話がずれたけど、昔は一人考え事をしたり、静かにアートを鑑賞したいときなど、近代美術館や都美館の企画展示を見に行けば、大きな部屋でのんびり過ごすことが出来た。

    ところが今ではありえない。ちょっと大きな展覧会に行けば普通の日のみんなが一生懸命、働いているときでもかなりの人盛りだし、銀座のはずれのギャラリーに行っても少しいれば誰かがやってくる。それに併せて作品も売れるようになったことは実に驚きだし、それはそれでとってもうれしい。

    観客動員数だけで見れば、日本は世界一だそうだ。ただしササビーなど公になっている現代美術の販売総額は韓国やトルコよりも低い。

    とにかく人間は何かにすがりたいし、存在の意味を知りたがるのだ。よく鏡という表現を使うけど常に自分を映す鏡がないとちゃんと立っていられない。それが社会性で生きてきた人類という生物なのだろう。

    特に現在ではポストモダンな絶対的価値観がなくなった以上、自分でそれを作り出すしかないのだ。

    現代美術はそんな不可視な世界を読み取り、少しはこんがらがった現実を整理して安心させてあげる役目はあると信じている。

    常に行き詰まってはいる現実だろうけど、こんな行き詰まった世界に少しでも希望を見いだす道筋を示す、仕事だとも思っている。

    ここでローティの言う物語に戻ると、大きな物語ではなくて、あいまいさが全体を包んでいるほんわかした真実。これからはそんなふうに思想に物語を使わないと、ガチガチに見えないルールに縛られた現状を、するりと抜けて逃げられないということと理解している。

    空気感で感覚的に総合判断するコミュニケーション社会。言葉による意思疎通は角がたって疲れて仕方ないし処理する情報量が増えすぎた。

    空気が読めない、と以前、流行ったけど、それが現実なんだろう、言葉だけではリズムが遅すぎて間ぬけ、ということなのだろう。

    というような分析や解説でしたり顔の自分、分析や解説などで納得することにオーガズムを得る年代?もしくはそういう種類の人間はもはや過去の行動形式人種なんだとも思う。

    それは大きな物語が存在していた西洋哲学の影響のもと、文化人なり知識人なりの真理の探究者が人間の発展に寄与するのだ、という優越感を盲信しそれに感化され、自己満足しているに過ぎないのかもしれない。

    現在の我々(人類)もしくは社会はもっと違う切り口、無数の小さな物語で進んでいる。今の時代はそれぞれの小さな物語集団が独自に成り立っている。人口が多いのでその小さな物語サークル内だけでも十分、自立できるのだ。だからあえて、各々が友好関係を築くように接近したり情報交換するように外交的である必要もない。

    その結果、マスコミからドカ〜ンっと新しい文化が生まれることもなくなった。ある意味健全なのかも知れない。
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    意味の意味が変わってくる
    都心の空が騒がしい。

    ヤフーニュースで金正日総書記死去とのスレッド。

    時代は変わっていく。

    ほんと変わった気がする。

    景色も人間も。

    過去をいくらうらやましがっても戻ってこない。

    これから起こることに希望を見いだすしかないけど、、、

    フラッシュフォワードというTVドラマが面白い。

    ある時、全世界の人間が2分17秒、失神しその間、半年後の自分の未来を夢見る。
    その夢が未来視なのだ。FBIが中心となってその事件の真相を負っていくサスペンス・ドラマ。

    民放でもやってたようで、竹内結子も出演。日本企業の資金もずいぶんあったのでしょうが、残念ながら不評で中途終了。

    またロストのスタッフたちの制作だということで、ロストの役者も出演。有名ミュージシャンのチャーリー役ドミニク・モナハンも登場。

    なんと彼はロストでケイト役だったエヴァンジェリン・リリーと結婚していた!

    話は飛んだが、半年後の未来がよかった人、悪かった人、夢など見なかった人などそれぞれの未来視に振り回されることになる。

    もし今、同じようなことが自分に起こって半年後の自分を見れるとしたら?!

    やっぱり未来は知らない方が希望がもてる気がする(笑)

    未来に限らず、知らない方がいいと思うことはけっこう回りに多い。

    大塚英志と東浩紀の対談集「リアルのゆくえ」の冒頭でいきなり大塚氏が「パブリックであろうとすると引きこもらざるを得ない」と言う。それは人間弱いから回りに影響されて批評などに差し支えるというありきたりの理由なのだが。

    東氏は一環して、現在社会は複雑すぎ過剰情報化であって議論とか結論とか民主主義の言うところの熟議してコンセンサスを得るなんて不可能である、と言い切っている。

    「一般意志2・0」で言うところ、もう話し合いは成り立たない。人間、おのおのの欲望がぶつかり合って発するスパークに照らされて社会は変化していく、みたいな一瞬、ロマンチックな光景が思い浮かぶようなことを説いている。

    まさに今の政治がその混乱を端的に示している。議論したくたってあれじゃ、出来ないだろ。

    案件が多すぎ、情報も多すぎ、国民の賛否、意見も大杉蓮。そのくせ時間がない。

    輪をかけてマスコミが機能不全、ヤフーのトピックスでもニュースの無意味さを痛感させられる。

    キムジョンイル氏死亡は驚いたけど今日ヤフーのトッピクスに出ていた、ファンにはわるいけど、杉本彩が急性虫垂炎になったことがどんだけ必要なニュースなのか?

    というようにもう情報が氾濫し取捨選択など間に合わない。なのでグーグルもヤフーも情報選択、収縮機能が付加価値なのだけど、権力的になってしまった。

    フェイスブックも映画の影響か、あっという間に日本でも人気snsになった。

    ところでまた自分は友だち申請で禁止ペナルティをくらう。今度は一週間だと。

    なんか法を犯したわけじゃないのに嫌〜な感じ。一企業のルールを逸脱したのかもしれないが、なんかすごく権力を感じる。

    いまじゃ市場が生活ルールを作って縛っている。それを犯すと生活に支障をきたすのだ。

    友だちに面と向かって意見言われたわけでもないし、弁解とかできるわけでもない。バーチャル・コミュニケーションの見えない、実在しないかもしれない管理者(アナグラム)から叱責されたのだ。

    なんだこの世界?!

    ところでネットのブログやコメントを読むと、みんなよく勉強しているし知識も豊富だし作文も旨い。どれも賛否両論、どれも正論、もっともだと思ってしまう。

    でもだからってそれを全部、賛成意見として取り上げても、各自が唱えるように理想的には絶対、ならない。意見の総意は成り立たない。(東氏は一般意志を総意ではなくてベクトルのある最大公約数と定義していた)

    でも人間は先にしか進めない。時間は繰り返さない。

    この混沌とした複雑奇々怪々な世界にあふれる情報というインビジブルで質量を持たないけどジワジワと精神をむしばむ、ある意味、放射能のような特性を持った意識の対象物(情報)と折り合いをつけて行かなくてはならない。

    と、なぜここで折り合いを付けなくてはいけないのか? とその意味がわからないのが今の考え方らしい。

    データベースという言葉が頻繁に登場するけど、例えば1958年生まれの大塚英志氏と1971年生まれの東浩紀氏の対談だと、なににつけ意味をつけたがる、納得したがる大塚氏と、意味はあまり意識していない、もしくは意味の価値があいまいな東氏。

    データベース化された現在では、意味はあまり意味がないのだ。昔のような意味に隠されたロマンはすでにない。

    安保闘争やら万博やら、意味から導き出される理念なり理想なり意味の解が絶対だった価値観はすでにない。データベースによって数量化される結果だけが意味であって形骸的な中味のない表層が彼らの「意味」なのだ。

    少しややこしいが意味の意味が変わってきていることだけは確かだ。

    それは東氏の言うシミュラークル(ボードリヤールの提唱した概念。オリジナルの存在しないコピー)が実在になっている現在を顧みれば自然な感覚なのだろう。

    たぶん現実世界という、この肉体的世界と精神(想像)世界もしくはシュミレーション世界の比率が脳機能の中で逼迫してきたのかも知れない。それだけ情報量が多くなったのだ。

    速く走るのを車や飛行機が代行しているように記憶マスの機能拡張としてコンピュータが代行するようになった。まあ、大上段にこんなことを、今さら発見しました!みたいに偉そうには書けないけど、とにかく意味の次はリアルという問題だ。

    リアル(現実)って何?っていうことで「新しいリアル」という言葉はもう古いけど、現実の解釈の仕方もずいぶん変化した。

    911はリアルなんだが、リアルではないかもしれない。

    それは個人的に解決出来る問題になったのだ。昔はリアルはすでに決まっていた。現在は、リアルは自分で勝手に決められるのだ。

    自分が本物だと思ったら本物になるのだ。それはさっき言ったシミュラークルに関係するのだろう。本物がないのだから自分で本物は決められるのだ。

    なんか街を歩いていてもコンビニで買い物をしてもみな同じ日本人だと、思ってしまうがけっこう中味は違うのかも知れない。

    そういえば昔、好きだったスペースもの「V」がリメイクされ再登場。とかげの宇宙人の話で面白かった。あれも外見は人間だったけど中身は宇宙人だった。

    もしかしたら肉体的な宇宙と精神的な宇宙はダークマターみたいに実在しているのかもしれないなぁ。

    それはゴーストや霊と言うもの。でもこれは実在する生物でもあるのだよ。そんな考え方。

    すると今までのようなアメリカ人とか東京生まれとか、DNA鑑定とかで決めていたその人本人はもうひとつの区分けがあって、霊の所属、それがどこか別の次元で分けるのか精神(エネルギー)の種類でわけるのかは、いろいろ考えられるけど、自分は一人じゃないのね〜♪ 

    日本人であり○○次元人でもある、なんてことが現実になったら面白いのになぁ。

    何?! コイかよ〜!!!!

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    戦争より宇宙
    最近、バタバタしててブログを書けなかった。

    それにいいネタは築地にいっても簡単に入荷しない。

    不平不満、それ違うだろ!みたいなネタは1分おきにあるけどね(笑)

    そう言えば12月8日、ジョンレノンの命日であり(合掌)、パールハーバー奇襲攻撃にて第二次大戦の火ぶたが切って落とされた日だ。

    悲惨だよ、戦争は。

    憎しみから?愛国心から?生活苦から?何にしたって理由がどうであれ、戦争は止めてもらいたい。

    NHK特集のアーカイブに当時のニュース映像をまとめたものがあるけど、子供から老人まで鬼畜米英と竹槍の突撃訓練してたり、軍需工場で作業に一心に打ち込んでいたり。

    日本の暗号はすべて解読されていて、一部幹部からは疑問が出てても、変えようとしないし、全滅したって鋭意の転進と報道し、マスコミも軍の広報部隊に徹して、その伝統は今でも続いている。

    ミッドウェー海戦、山本五十六大将の行動情報、すべて筒抜け。

    今じゃ、日本はアメリカ連合国側に戦争を仕向けられたことは明白な事実。最後の最後まで日本は譲歩案を出していたけど結局、ハル国務大臣が受け付けなかった。靖国神社のユウシュウ館に行くとその辺の史実がパネルで説明してある。なんか以前、アメリカはその展示にまでもチャチャ入れたそうだ。

    今年も大変な年でした。311はまだトラウマになっている。福島第一原発だってまだ終わったわけではない。

    ところで、911の同時多発テロがあってから、米国政府のセキュリティチームが日本政府にテロ対策協議に来た際、原発の警備について手薄すぎると指摘したそうだ。

    銃で武装した警備要員を配置するべきだと言ったら「いなくても大丈夫です。日本は銃の所持は法律違反になるからです」と答えたそうです。

    思わずホワイトハウスのスタッフは気の利いたジョークと勘違いしそうになったらしい。

    いい国なんだよなぁ、日本って。がんばらない、ニッポン!

    在中国日本大使館内に逃げ込んできた亡命者でも中国兵を入れて引き渡しちゃうし、あげくのはてに、おそらく親切心なのか、若い兵隊さんの帽子まで拾ってあげて。

    岸田秀氏が、アメリカは不安ではなくて恐怖対象にしないといけない、と述べていた。

    つまり不安は原因が不明だから、なる。

    恐怖は、その対象が明確だから抱く感情、と言い、アメリカはとてつもない軍備だから、それに対して恐怖心で対応すれば外交で打開策はある、と言いたかったらしい。

    だってニミッツ級原子力空母ってスゴイよ!実際、見学したわけじゃないけど、ドキュメンタリーで見る限りスゴすぎる。5〜6000人乗船し10万トン弱、全長300m以上。それが6〜7艘もいるし、原潜だってスゴイ。25年間、もぐりっぱなしで行動出来るって言うんだから。

    だいたい軍事衛星から地上30cmくらいまでならわかっちゃうし、通信やネットは全部傍受され赤外線メガネやら使ったら正直、どこにも逃げられないよね。現に三沢基地のレーダーで政府関連の機密情報は傍受されているって石原慎太郎が言ったね。

    平和になったらそれだけの兵器や軍事力どうするんだろ?!宝の持ち腐れジャン。

    だから手を変え品を変え、いろんな国に戦争しようよ〜って言ってるんだ。

    やっぱりこれからは宇宙だね。とりあえず20万ドルで宇宙旅行日帰りは実現している。すでに市民でスペースシャトル経験者はいるからね。

    バージンエアのブランソンらが今、スペーストラベル事業を進めている。立派なスペースエアポートもアメリカのニューメキシコに出来る。すでに5万人近い予約で埋まっているそうだ。

    あと5年もすればとりあえず衛星軌道までならもっと安く旅行気分で行けそうだ。

    エクスペディアやエッチアイエスなんかで予約出来たりして。

    それとチリのパラナル天文台近くに直径42メートルくらいの反射望遠鏡の計画がすすんでいて解像度はハッブル宇宙望遠鏡よりスゴいらしい。

    それでビッグバンの時の光を捉えようなんて言う計画もあるから壮大で楽しいなぁ。

    フォックスTVでテラノヴァという新しいドラマが始まった。総指揮がスピエルバーグで24のジョン・カサーとか豪華スタッフ陣でTVドラマだというから、ハリウッド映画も衰退しはじめているんだろう。


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