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    • Contemporary Art 2.012展
      記事掲載
















  • ハイデッカーと子供
    最近、読んだ本の中で、スポっと心に響いた文章があった。

    それは「存在と時間」で有名なハイデッカーが問うた、投企または被投性という考え方だ。

    彼は20世紀初頭のドイツ人哲学者でオリジナルではgeworfenheit(投げ込まれた)という。

    哲学っていうとそれだけで難しい〜と先入観が先走るかもしれないけど、平たく言えば、生きるって何? 私って誰? ってことを言葉で整理して普遍性をもたせることだと思っている。

    つまり、人それぞれ個人的で抽象的で漠然としたことを誰が読んでも同じ意味に受け取れるように整理して言葉にすることではないだろうか?

    科学では、リンゴが落ちる、ということを例えば数字や言葉でもって誰にでもわかるようにすることだ。だって重力ってことを伝えるために毎回、リンゴを落とすのはとってもめんどくさい。リンゴを持っていなかったら話がそこで止まってしまうし。

    ある意味、簡略化&抽象化するってことだけど、そうすると誰でもそこから個人個人、自分の考えを付け足して発展させることができる。

    ところでこのゲヴォルフェンハイトの意味とは「我々はこの世に突然、投げ込まれてきた存在」なんだそうだ。どこから来たかはここでは問題ではないらしい。

    当然、右も左も上も下もわからいない。我々は目が覚めたら全く見知らぬ世界にいた!というわけだ。

    だから人間はなんとか自分と回りの世界との関係の道筋をつけようと試みる。そのために自分がどのような存在としてこの世界にいるのか物語を作り続ける、そういう努力を宿命的に強いられている。それが人間のアリさんマークの、じゃない、有り様だという。

    世界と個々人の間には、あらかじめ決められた絆も安定した秩序もなく、まして明確な定義もない。

    それだから人間は自分が誰か、どんな存在か、常に納得し了解していかないと生きられない存在だと。

    ちょっと難しいけど、結局自分がなんだかわからないから不安なんだ。宗教はそういうことで生まれた必然的な自衛手段でもあったのですね。

    話は飛躍するけど、日本人の法令遵守の精神っていいことなんだけど、その自分のわからない不安を規則や法律などの決まりを作り、守ることで自分の存在を確かめあっている、って思うこともある。

    決まり事を守っている自分の物語を作ることで漠然とした不安から少しでも目をそらせられるんじゃないのだろうか。

    もちろん、家族っていうことはその流れから思うと、とても大事だ。

    親族や特に自分の子供って自分っていう存在理由を裏付ける物的証拠だもんね。その血脈の物語が広がっていき民族や国につながっていく。

    (そういう自分は子供はいない。今からがんばって作るかぁ!って自分にとっては作品が子供だもんね、青い血だけど)

    そう考えていくと、なんであんな残酷で悲惨で誰も望まないと思うような戦争が起こってしまうことが、なんとなく理解できたりする。

    ちなみにハイデッカーはワーグナー大好き親ナチスで戦後、その責任を問われたこともあったそうだけど。
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    コンプライアンスと愛
    最近、ネットではTPPの賛否を問う意見が飛び交っている。

    バーチャルな世界ではあるけど盛んに意見交換、罵詈雑言、正論、極論入り交じり玉石混淆だが、顔が見えないからハッキリものを言えるのかもしれないが、日本人も変わったなぁ、と自分の意見をちゃんと言えることに感心しながらも、流れてくるマスコミ報道は相変わらず、政治も政府も街にでても????

    ネットの勢いはナンなんなんちゃん、ナンバラかぁ〜!(さむ〜)

    歴史を遡れば日本人の忍耐強さ、我慢強さと、それに伴う法令遵守のマインドは世界に誇れる?ものがある。

    有名な綱吉の生類憐れみの令なんかヒドイぞ。

    武士が頬の蚊を叩き殺しただけで島流しになったとか、路地の打ち水も桶にわいたボウフラを殺すかもしれないと言って、みんな止めてしまったとか。

    それでも将軍様には逆らわなかった。逆らえないほどの刑罰の酷さもあったことも法令遵守人間育成に拍車をかけた。

    あまりにも年貢の取り立てがひどくて餓死者が多くなってから初めて農民一揆などがおこって、やっとお上も変わっていく。それでも何万人と死ぬまで耐えるのだ。

    苦しいとか悲しいとか、ため息ついているうちはまだまだ序の口。たくさん死んでやっと変わるのが日本人。(世界中ある意味同じだけど)

    こんなDNAを引き継いでいる我々日本人が今さら不景気だぁ〜原発問題やらTPPの不平等と言っても、変われないのは不思議じゃあない?!

    ところで現在、海外に行くと日本人はとってもリスペクトされ、ほとんどの国でヴェーリー・ウエルカムなのに驚く。

    かつてはエコノミック・アニマルと後ろ指さされ組で毛嫌いされていた日本人だ。30年ほど前くらいは差別や嫌み、悪口、いじめも受けた。

    今はそれに中国人がとってかわった。いろんな国で見聞きすると中国人の評判はよくない。マナーや閉鎖性、集団行動、安物売り等々。(中国人の渡欧者が激増したという理由もあるが)

    ところで話が脱線ゲームしたが、このコンプライアンス人間はとてもいいことだぁ、け〜ど〜裏を返せば法令違反に神経過敏症になるところが怖いのだ。

    極端に言えば人間の尊厳を飛び越えてしまう。そこまで行かないにせよ、隠れ蓑もんた、になっている。

    つまり法律、規則守っていればなんでもOKになっちゃう可能性。だってその守るはずの法律や規則が必ずしも、いい人が作っているとは限らない。

    話は変わるけど、スウェーデンじゃあ兵役が嫌だったら刑務所にいけば免除されたという。それで社会奉仕もダメで反戦的な若者は刑務所に服役する。

    もちろん愛国者からは差別されるだろうが、それがキャリアや世間体にはそれほど問題視しないと聞く。(最近、徴兵はなくなり職業軍人になったらしい)

    また家族を持つ殺人犯は服役中でも土日は家に帰れる。それも家族や人間の尊厳を重視した結果だという。(経費節減もあるだろうが)

    もちろん極端な例なのだろうが、欧米は宗教が法より上意なのだ。ムスリムは特にそうだ。法律は首相や大統領より最高宗教指導者に最終的に決定権がある。

    ところが昨今の日本人には法律が一番上なのだ。

    六法全書が旧約聖書だ、新約聖書、コーランだ。

    六法全書に愛のことは書いてない。

    やっぱり愛だろ愛!

    でもで〜も〜!(続く)
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    ヘルマン・ニッチェの記事
    先月の月刊誌『ナイルス・ナイル』10月号にオーストリアの現代美術家ヘルマン・ニッチェについて原稿とイラストを書きましたです。

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    現代美術と羊
    ヘルマン・ニッチェの世界


    ヨーロッパにおける
    羊の意味と絵画


     一二干支のひとつである羊は、ルネッサンス以降のヨーロッパ絵画にたびたび登場するモチーフだ。中国で生まれた干支とは違いユダヤ教、キリスト教に由来することは言わずもがな。
     迷える子羊よ…で知られるようにキリスト教では民は羊に、キリストは羊飼いに例えられている。
     またユダヤ教では「過越の子羊」の逸話が出エジプト記にあり、その祝祭日に、ほうむられた子羊を家族みなで食することは欠かせないイベントのひとつだ。
     そのため羊やその群れが絵の背景に描き込まれたり17世紀の画家エル・グレコの「羊飼いの礼拝」のように羊飼いをモチーフにした作品が数多く描かれてきている。
     現代美術においても、ひとつのメタファーとして重要な立ち位置を占めていることは言うまでもない。

    ヘルマン・ニッチェと
    OMシアター


     羊を使った作品で有名なのはヘルマン・ニッチェとダミアン・ハーストがまず思い浮かぶ。
     ヘルマン・ニッチェは1938年オーストリア・ウィーンに生まれグラフィックデザインを学ぶ。最初は抽象画を描いていたが、60年代になってパフォーマンスを始める。
     そのニッチェの代表作と言えばOMシアター(Orgies - Mysteries Theatre)であろう。観客の五感すべてに訴える6日間の総合舞台芸術として57年から構想が練られ60年にウィーンで試演。しかしその過激さゆえ何回かの裁判、収監3回という散々な結果に終わってしまう。
     なにしろそのパフォーマンスとは子羊の皮を剥ぎ解体し白い布に内臓や血をぶちまける何とも言いがたい壮絶な内容なのだ。
     しかし62年ウィーンのアパートメント・ミュールで9時間にわたり上演、「アクション1」として彼の歴史に刻まれることになる。
     OMシアターとは古代ギリシャの酒神ディオニッソス(ローマ神のバッコス)の”乱痴気騒ぎ祭り”と”神秘的な劇場”といったような意味で、本人曰く「存在の歓喜の美的儀式」なのだそうだ。
     最初はニッチェ自身が羊の血を浴びたりしていたが評判をよぶにつれ参加者たちも演じるようになる。
     彼ら(女性もいる)は全裸になり羊の内臓や血を体中に塗りたくられキリストの磔刑を模して十字架に括られ行進する。上演中は楽団がニッチェ自ら作曲した音楽を演奏、他の参列者はみな白い服を着て血を浴び最後はみなで祝宴をあげ、残った数々の血に染まったシーツや服や十字架など遺留品すべてをアート作品に仕立て上げてしまうのだ。
     71年にはオーストリア郊外のプリンチェンドルフ城を購入、会場をここに移し今年までで計131回を数える。
     過去には何度も逮捕されたりしたが、本国でも徐々に認知されるに至り95年にはウィーン国立歌劇場の美術と舞台監督も委嘱された。
     もちろん現代美術界では世界を代表するアーチストのひとりでもありドクメンタを始めシドニー・ビエンナーレ、08年には横浜トリエンナーレに招待されてもいる。

    ニッチェの目指す
    作品の意図とその暗喩


     ニッチェにはアクション・パフォーマンス以外にもペインティング・パフォーマンスという赤や紺、茶、濃緑、黒などの絵の具を大きなキャンバスにぶちまける一連の作品群がある。どれも激しい動きから生み出されたタブローは血のしたたりや肉体の破壊や暴力を彷彿させる。
     一般の人にはとうてい理解できないだろうが「目指すところは人間がもつあらゆる欲望、残忍性、性癖、狂気などからの解放。それに伴い歓喜から来る覚醒」と彼は言う。
     それはまたヨーロッパ文明に長く根付き、刷り込まれたキリスト教という既成概念や固定観念からの脱却とも受け取れないだろうか?
     ヨーロッパ文化はキリスト教の影響下のゆえ、初めに言葉ありき、の世界観でもある。ゆえに現代美術の存在する価値のひとつは言葉では置き換えられないエネルギーや真実を伝える手段とも言えるのだ。
     ところで羊はその性格から家族の安泰と平和な暮しに例えられる。来年は羊のような良い年になることを心から願ってやまない。
    (無断転載禁 ©Niles Comunications Co,.ltd.)



    あとWEB版にはイタリアン・レッドについて書きました。
    http://www.web-nile.com/article/article.php?category=03&article=000113

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    ジョブス
    先日6日、アップル創業者スティーブン・ジョブスがなくなった。

    自分はLCIIやクワドラからのマックユーザーで苦楽を共にしてきた身だから、友だちを(僭越だが)失ったような気がして複雑な心境だ。

    さすがにOS起動時の画面にお悔やみのメッセージは表示されなかったが・・・。

    最初の頃はフリーズのオンパレード。イライラしどうしでバックアップとの競争だった。でもカッコよかったしデザインや画像処理ではマックが優れてたのでウインドウズは考えられなかった。

    ヤバイ!そろそろかなぁ、と思って保存しようとするや否やワンキーパンチの差でフリーズする。

    そんなことが続くうち、朝、バ〜ンと起動すると(この起動音も変わってないな。ちなみにウインドウズXPはブライアン・イーノ、VISTAは、クリムゾン・キングのロバート・フィッリップだそうだ)なにやらパソコン画面と会話している自分がいた。

    あれ〜、クソっ!ガッデム!マッキントッシュ!とつぶやく。ツイッター開発者のエヴァン・ウイリアムズも同様の経験をしていてツイッターのアイデアにつながったいう(ウソウソ!)

    なんか懐かしいなぁ。今のマックとは雲泥の差。今ではすっかり日本製ように優良商品になってしまった。

    スティーブン・ジョブスの残した言葉でもっとも知られているのはStay Hungry, Stay foolishだ。

    空腹であれ、バカであれ!

    ハングリー精神のことは言わずもがな、そう粗食は体にいい!

    長生き健康の秘訣は粗食が一番だそうだ。だから自分も実践している!

    さすが禅に心酔していたジョブスだけのことはある。

    でも残念ながらジョブスは享年56歳だった、、、(彼はジョブス家の養子になったが、どーでもいいけど実の父親はシリア人政治学者アブドゥルファター・ジャンダリ。

    そう思うとアラビア文字のDNAがジョブスが大学を中退してもカリグラフィの講義には出席させ、後のフォントの優位性に繋がったと想像できる。)

    これは2005年のスタンフォード大でのスピーチでの言葉だが、オリジナルは彼のお気に入りだった貧乏旅行ガイドの裏表紙に書いてあったキャッチコピーだそうだ。

    彼も当時のヒッピームーブメントの若者で、アタリ社に就職するもロンゲにビルケン・サンダルのヒッピー姿で通したり、インドに放浪旅行するも赤痢にかかったりしている。

    アップルという社名も公式見解はないが、どうもビートルスのアップルレーベルからと言う説が有力だ。

    ところでちょっと長いが彼の残したいいフレーズがある。
    (引用:東京IT新聞・湯川鶴章)
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    人生を振り返れば無関係のように思えるような点と点が結びつくことがある。
    だが、人生の途中ではそれに気づかない。
    だから点と点が将来どこかでつながると信じることで、たとえそれがほかの人の道とは違っていても、自分の心に従う自信が生まれる。
    これが大きな違いをもたらしてくれる・・・

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    成功者は何を言ってもいい響きに聞こえてしまうし、不思議だがほとんどの人たちは言葉は違っても、同じような意味のことを残している。

    それはやっぱり真実なのだろう。

    昨日はスウェーデンで成功した中島由夫さんの結婚式にお手伝いをかねて参加した。ちなみに先生、御歳70歳です。

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    詳しいことは個人情報になるので省くけど感動的でした!

    横浜にある日本最初のプロテスタント教会で式を挙げ(自分にとって初めての教会セレモニーに出席)、お祝いはロイヤルウイングでクルーズ船パーティ。パフォーマンス・パートナー和完さんたちのグループも演奏。

    ところで中島先生の出会いもジョブスの言う「点と線」だ。

    以前ブログに書いたが、遡ること28年近くも前、親戚のお宅で先生を紹介されたのが最初の点だった。

    当時の自分はイタリア留学から帰国した直後で世間知らず浦島太郎状態。

    先生もまだ若くて怖くてストレートな物言いに怖じ気づいてしまい挨拶程度しか言葉を交わせず、それっきりこれっきり、、、(スミマセン!)。

    そんな点から20年ほど時が経て、偶然通りかかったギャラリーで先生の個展の看板に遭遇。もしや?!と思い、画廊に入ってみるとナナナナント、二つ目の点、先生との再会。

    そうやって先月のスウェーデンの彼の美術館の個展開催になり、昨日の結婚式に繋がっている。

    まさに点と点はつながっていることを実感させられる出来事だ。

    もちろん他にもたくさんの点を毎日、ピンで絵を壁に止めるように出会は続いている。

    そう思うと、どんな出会でも人が少ないパフォーマンスでも個展でも、見返りの少ない仕事でも気は抜けない。

    それを逆手にとって、何かいい仕事に繋がるかもしれないから頼む、という誘惑がちょっと困るけど・・・。

    スミマセン! 自分も使ってしまうこともあります→懺悔(カソリックですが)

    ほんとうにエニシとは不思議なものだ。

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    インサイド・ジョブを観て
    急に風が秋っぽく冷えてきた。

    また年末かぁ〜新年かぁ〜一年、早すぎクリスマス。

    10代の頃の一年の長さって言ったら、一生くらいに感じられ永遠に続くんじゃないかと思ったくらいだ。

    冬と言えば冬季オリンピック。もちろん札幌オリンピックのジャンプもあったが、思い出すのは荻原兄弟が活躍してたノルディック複合だ。

    しかし!あまりにも勝ちすぎて協会は、勝手に日本が不利になるようなルールに変更して、もう太刀打ちできなくなった。

    背泳のバサラもそう。柔道は言わずもがな。超重量級でマカ不思議な返し技で金メダルを逃した判定も印象に残っている。

    ルールに則って競い合うから、ルール破りはすぐに失格。それは当たり前だのクラブジャマイカ。

    で〜〜〜MO〜〜〜

    ルールを自分に有利にできたら全部勝てるジャン。

    背が低い日本はバスケットがめちゃ弱い。

    自分は高校時代、バスケ部で興味があるんだけど、たとえば背の高さを発揮できないように身長制限を新しいルールに適用すれば日本にだって世界一になれる可能性はあるかもしれない。

    昨日、IPTVでインサイド・ジョブというドキュメンタリーを見た。

    昨年のアカデミー長編ドキュメンタリー賞をとって多くの国際展で注目された映画だからご覧になった方も多いと思う。

    まさに、ノルディック複合や柔道と一緒で自分に有利なようにルールを変えたり反則を見逃せば誰でも勝てるだろ、みたいな印象だった。

    80年代、いや金本位制を止めたときから、金融市民VS実体経済従事者の図式が生まれていく。

    まるで古代ギリシャ時代は民主主義といいながら、実体経済的な雑益や日用品などを作っていたのは、基本的に奴隷だった。

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    市民の仕事は、奴隷管理と政治や兵役くらいだ。

    今のグローバル・スタンダードという経済体制は一部、金融市民と実体経済従事者=奴隷と変わらない、との印象を映画を見て思ったのだ。

    しかし、いつも不思議に思うのはマイケル・ムーアもそうだけど、反体制的な映画でも、監督がえん罪になったり、上映禁止になったり(一部はあるのだけど)、マスコミ・ボイコットにあったりせず、アカデミー長編ドキュメンタリー賞など体制的な賞でも受賞してしまうことなのだ。

    例えば日本だったら、小沢氏と検察の矛盾検証映画や小泉政治のアメリカ主導実証ドキュメンタリーみたいな作品が日本アカデミー賞みたいな大きな賞を受賞するのだ。

    痴漢えん罪事件を扱った映画に「それでも僕はやっていない」というのがあった。あれは結審する前に封切られていたらしく、結局、有罪になってしまった。

    不鮮明な記憶だが、最後に、監督がそれをとても悔いていたテロップが流れていた。

    もし今、日本で国家レベルを批判するような、米追従を告発するような映画やノンフィクション小説が世に出ることはできないだろう。

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    まず資金が集まらないし、ジャーナリストはえん罪か謎の死だ。

    植草氏や国税庁職員、NHKの長谷川解説委員や朝日新聞の斎賀氏、鈴木氏、読売の石井氏など枚挙にいとまがない。

    読売の石井氏などこんな調子だ。
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    2007年4月5日、東京都文京区白山のマンション室内で「後ろ手にした両手に手錠をかけ、口の中に靴下が詰まった状態で」死亡しているのを同居している母親が発見。捜査に当たった警視庁は6日、「事件性はなく」「事故の疑いが濃厚」と発表した。
    石井氏の死をめぐっては、所属の読売を含め大手紙が軒並み黙殺に近い状況。スポーツ紙、夕刊紙に至っては、「SM趣味が昂じて」と報じるなど、故人を貶める報道に終始している。

    参照→http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=158060
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    しかし、アメリカでは、アメリカの金融マフィアだ、陰謀説だ、など批判されているにかかわらず、なぜ、反権力的映画が制作され上映でき、国際的なイベントへの出品もできるのか?

    この辺は宗教的な価値観なのか、マッチョ嗜好、正攻法で戦うものはリスペクトする、つまりおまえもやるなぁ、見直したぞ!みたいな感覚なのか、それともそれらの内容は嘘か、たいしたことではなくて、影の支配者には実害がないのからなのか?

    それともプロファイリング的に黙殺、もしくは無視することがB階層以下の人間にとっては最善の方法だということなのか。

    マイケル・ムーアの華氏911はかなり危ないラインだと思うのだが。

    普通、愛国者法で捕まりそうだが。

    エンロン事件も社会保険制度のシッコも、早い話、日生や東電、三菱批判みたいなものだし。

    話は変わるがこれだけドル安だと、ドラマや映画の中で1万や10万ドルと言われても昔のような価値じゃないから少し違和感。

    だってドルが120〜130円くらいの10万ドルと、今の70円じゃ倍近く差がある。

    現代美術の世界も似たような(といってもお子ちゃまレベルだが)現象が見受けられる。

    次回にこのあたりを考察してみたい。

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