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    • Contemporary Art 2.012展
      記事掲載
















  • 都条例注意!
    イスタンブールアートフェアであおひと君をとても気に入ってくれたトルコの中校生?たち。
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    性描写規制を含む東京都条例が今日、再提出された。

    児童ポルノ規制のときのアグネス・チャンのヒステリックに引きつった顔には、醜悪さを通り過ぎ辟易したが、石原都知事のマスコミに対する言いぐさも相変わらず品性のない、横柄な上から目線であきれた。

    自分が偶然、ニュースで目にしたのは、記者の質問に、夫婦の性描写をみて喜ぶなんて頭がおかしいしか思えない、馬鹿じゃないのか!というような得意の捨て台詞だった。

    一度は否決された都青少年健全育成条例の改正案だが、十八歳未満への販売を規制する漫画やアニメについて「刑罰法規に触れる性行為」を「不当に賛美・誇張」する「画像」という三つの要件を提示。このため小説は含まれないという。(11月23日東京新聞web版より引用)

    ニュースだけではそれほど目くじら立てるような規制ではないと思われる方も多いだろう。それに、改正案に小説は含まれない、とのことなので石原知事は他人ごとに捉えているのかもしれない。

    当人のデビュー作「大陽の季節」は昔、読んだ。その他、彼の短編も何本か読んだ。どれも過激な暴力描写、風俗描写がてんこ盛りだった。正直、面白かった。

    現在ではその程度の表現は当たり前なのだろうが、彼がデビューした当時(1955年)は戦後まもなく、日本人の精神には儒教思想から始まり軍国主義、男尊女卑、性忌避の風潮はまだまだ根深く残っていた。故に大陽の季節はセンセーショナルで過激な描写が世相を驚愕させベストセラーになったのだ。それこそ表現の自由があったからこそ生まれたのだ。

    その本人がすっかり表現の世界から身を引いた、まるで小説なんて書いたことのない頭の固いただの老人になりはてているのだ。

    表現の自由は確かに両刃の剣だ。現代美術でもダミアン・ハーストの馬の輪切り標本作品や9月の村上隆のベルサイユ宮殿の個展の閉鎖請求なども目新しい。

    ベルサイユ宮殿といえば日本の皇居くらいに値する歴史的史跡だ。そこで海外のアーティストのエロティックなマンガキャラの作品を展示するフランスと言う国もスゴイのだが、日本ではそれこそ暗黙の了解があるではないか。

    声高にいわなくても天皇制だけにはふれることが出来ない。タブーだ。モスリムにもある。どの国にも少なからずある。それは文化だ。それを否定するつもりはない。

    なんでも規制しましょう!が問題だと思う。自己責任がとれないから何でも他人の審判にゆだねる現状。声高にうるさく言えばまかり通る常識。大義名分で押し通す一部権力者たち。

    今となって人間は生きることより住んでいる地域の決まり事や法規制にはずれないように、捕まらないように失敗しないように破産しないように嫌われないようにストーカーされないように毎日をこなすのに精一杯だ。

    最近、特に感じることは拙速にあがいているとしか思えない世の中の焦りみたいな重い空気だ。国家大成、人間の尊厳など大事な根幹にあたるようなことは巧みに避けて身近にある簡単そうな、わかりやすいことばかりに目を向けているような気がする。

    街に出れば、電車が来るから気をつけろ、白線の後ろに下がれ、路上喫煙禁止、振り込み詐欺に注意、キャッチセールスに注意、注意、注意、注意!

    注意ばっかりだ。

    生まれてから抗生物質てんこ盛りの養殖食材やジャンクフード食って、親から先生から友人から会社の仲間からテレビからずっと注意されっぱなしで生きていたらおかしくなる。

    そのくせ自殺はいっこうに減らず、貧困層は増え、肉親殺し、子殺し、無差別暴行殺人と犯罪は増え続ける。

    確かに我々人間は社会という団体行動の中で効率的に生産性をあげ危険を減らし種の繁栄をもたらしている。そのためにある程度の規律は必要不可欠だが、なんでも規制すれば世の中がよくなるとか、人間の行動がすっかり変わるとかありえないだろう。

    規制はよりよくなる事実が明らかな場合のみ必要だが、現状では何でも規制すればよくなる、という錯覚に陥っているのではないだろうか?

    だからこそ表現の自由は大事だ。表現は空想の産物だ。あり得ないことを疑似体験できる素晴らしい能力だ。それだから創造性は人類の最大の武器でもあると思う。創造性が人間の進化を招き、繁栄をもたらしているのは明らかだ。

    創造できなくなったら、食ってクソして子を増やして死ぬだけの生物のサイクルを繰り返すだけになる。今となって人間がそういう生き物に後戻りすることは出来ない。

    今回の都条例ばかりではないが表現の自由は社会の中で最後の砦だ。漫画家たちが言うように規制が先にあったら創作が前に進めないだろう。規制は検閲でもあるのだ。法規制が事前に、アーティストがこれから作り出そうとする内容を決めるものではないだろう。

    自分でも表現の世界でずっとやっているが、新しい表現を探しだすこと、創造することの困難さ、大変さは筆舌に尽くしがたい。あらゆる可能性を探り日々苦心し血のにじむような困難を経ている。だからこそ世に残る天才の作品は光を放っているのだ。

    マンガとダ・ビンチは一緒には出来ないが、どちらにも創造性は不可欠だ。漫画といっても鉄腕アトムもナルトもいまじゃ世界的に影響力をもつアート作品だと思っている。

    現在まで世界中に残っている作品は数え切れないほどの忘れ去られた作品の多大な犠牲の上に築かれているのではないだろうか? それらの作品の中には命をかけてタブーに挑戦した作品も数多くあったはずだ。

    たとえ残らなかったとしても勇猛果敢なアーティストたちの闘いのエネルギーがあるアーティストに集大されて傑作は生まれているのだ。

    自分は傑作は決して作家一人が全部、考えだし生み出したものではないと思っている。

    「大陽の季節」も彼自身がそういった数々の試行錯誤を経た作品にふれ感動、怒りなどいろいろな経験を経てきたからこそ生み出された作品だと思うのだが。

    そういった作品が途切れなく生まれ、数え切れないほどの人々に希望を与え感動を呼び社会を繁栄、進化させている表現の世界を、そのときだけのそれも一握りの人々のわかったような似非倫理観に押し流されることは危険過ぎやしないか?!

    関連ニュース:http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010112901000790.html
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    11月も終わる、、、
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    早いもので明日で11月が終わり師走に突入。

    今年も過ぎようとしている。

    パリとイスタンブールに行った。

    ポンピドゥーセンターでの街頭パフォーマンスは一生できないだろうと思っていたからとてもラッキーだった。

    またイスラム教圏であおひと君をやれるとは思っても見なかったから今年はそれなりに実りある一年だったのだろう。

    今のところなんとか元気で生きて来れているし。

    一日一秒、毎秒毎分前進あるのみ。

    後ろを振り返ればぁ、、、、カチカチ山ぁ〜借金の山ぁ〜売れ残った作品の山ぁ〜。

    それでも幸せ、生きるって素晴らしい〜♪

    来年も2〜3カ国海外遠征したいものだ。

    今のところ、何も決まっていない。

    プレゼン資料つくって営業しないと。

    2011年、最後の年になるか!
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    ちでじ
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    地デジ普及率9割だそうだ。
    毎日、画面のあちこちにうるさいテロップで変えなきゃ見れなくなる、と言われりゃ何とかするだろう。別に見なくても犯罪じゃないし思ったほど自分の人生は変わらない。タバコと一緒で止めればいい。

    当アパートも地デジ対応アンテナにしたらしく急に地上波が見られなくなった。自分のTV受信機は見てくれは地デジ対応テレビっぽい新しいデザインだけど安かっただけのことはある。チューナーが内蔵されていなかった。

    いい機会だから地上波はもう見ないようにして有線TVだけにしようと思う。ナショナルジオグラフィックとFOXTVあたりを流しておけば、けっこう満足。

    タバコの値上げで禁煙しようと密かに企んでいたのにあっという間に挫折。最近、同様に日曜の将棋番組をみたいがために室内アンテナをググって安いのを購入してしまう。

    室内アンテナでは鮮明に映らなかった。仕方ない。しかし正月がネックだ。サッカー、ラグビー、マラソンなどスポーツ好きにとってテレビは大事なツールになる。

    おそらく我慢できずにチューナーを買ってしまうそうだ。でも地デジチューナーって地デジ電波になっていなくても使えるのかな?

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    東京リアル 1
    先週末、久々に六本木ミッドタウンのあたりを通った。

    金曜の夜、それも年末近い11月中旬にもかかわらず人の出は普段と変わらない。

    バブルの頃は11月に入ると週末の夜、明け方の4時頃まで空車は見つからなかった。どこもタクシー待ちの客で繁華街は溢れかえっていた。

    お祭り好きの日本人、毎年のようにクリスマスオーナメントが瞬き、あちこちから流れてくるクリスマスソング、それに浮かれるご機嫌な人たち。

    しかし今年の光景はひと味違う感じがする。

    静かだ〜。

    国会は相変わらず右往左往、揚げ足取りに重箱のスミの突きあい。これといった目新しい経済政策も対局を見据えた骨太の政策方針もたてられず、行政改革も米従外交も政権交代する前とほとんど変わらなくなった。

    昨年の総選挙は民意で政権交代がおこったはずだ。それが気がつけばマスコミの政治と金問題で引っかけ回され、これでもか、という執拗なペンの暴力に脅されつづけ真実が灰色の煙に隠され崖っぷちに我々国民は追いやられている。

    東京の街から活気は消え、ただただ戒厳令の夜のごとく静まりかえり、あのエネルギッシュだった不夜城がなくなりつつある。

    それはそれで健全なのかも知れない。エコ問題、資源の枯渇、今までの日本が異常だったのかも知れない。夜は静かに寝る時間なのだから。

    一歩下がって考えてみると、いまこの状況は過去と比べて、昨年と比べて悪い、違う、という判断、評価しかない。つまり右肩上がりで数字は増えていくということが理想的な答えにすぎない。それ以外は、悪いとでしか言い表せないのだ。

    でもよく考えればその価値基準もすり込まれたものなのだ。悪いのは”悪い”と思わされているにすぎない。悪いのではなく変化しているにすぎない、と考えられれば別に悪くない。

    まず、人類の目標やら希望やら理想的な最終的ビジョンが見えなくなった。というよりそのビジョンのコンセンサスがないままに来てしまった。今までは情報が遮断されお互い手の内を見られずに騙し合えてこられた。それが今では隠しきれなくなった。だから歯車のはずれた時計のごとくみなバラバラに回り始めてしまった。

    希望の見えない日本。こういうふうに感じるのは自分だけだろうか? 日本だけの問題ではない。ヨーロッパもアメリカも世界中、似たようなものだ。むしろまだマシなのかも知れない。

    ただ今まで第三国と言われていた発展途上国は少しはいいのだろう。資源もあれば乾いたタオルのように汗を一杯吸い込む活力もある。

    しかしすでに最盛期を通り越した列国と言われる欧米、日本はどうやってどういう方向に舵を切るか、がここ数年の大きな課題となるのだろう。

    私たちはこういう状況で希望を見いだせるような創造的な生き方を学んでいない。ダーウィンが言うように「変化に対応できる種」が一番強い。

    今は法と規則と情報でがんじがらめになり創造的な生き方で大きな舵取りをできるような広い道があまりない。すぐに側溝やら標識やら対向車やら歩行者に邪魔をされて身動きがとれなくなってしまう。

    でもこの変化をおもしろがって新しいビジネスチャンスだ、と捉えて目を輝かせているタフガイもいるに違いない。
    写真:トルコではどこでもタダのパン。美味しい。
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    希望に輝くアクセサリー!
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    イスタンブール残滓 2
    この2年間、海外に行くことが多くなった。

    2008年6月のチェコ・プラハを皮切りに10月にハンガリー・ブダペスト、2009年4月にはセルビア・ベオグラード、今年は7月にパリ、そして今月はトルコのイスタンブールだ。どこも公的な展覧会やパフォーマンスの発表だった。

    不思議なことだ。それまで自分が海外に行きたいから一生懸命に何年も交渉し営業やら売り込みをしていたわけでもなく偶然の度重なりが続いているだけなのだ。

    そもそも他の作家たちのように小さな頃から画家になりたいとか大きな夢を抱いて美大をでて現代美術の世界に入ったわけではない。

    気づいたら続けている。

    というより続けられている。

    あえて言うなら他にやれることやその才能、他にやりたいことがないから続けるしかない。

    普通、こんなに生産性もなくかなう可能性すらない夢にもならない妄想に取り憑かれ、若い頃からこの業界にどっぷりつかっているわけでも親や親戚のコネもなく、ただヨーロッパ留学中に受けた現代美術の魅力とショックから止められなくなってしまったのだ。

    話はいきなり変わるが最近、海外でいろいろ展覧会をみたりネットのサイトをみると具象絵画の隆盛がスゴイ。

    人物画が多いのだがみんなひと工夫、ふた工夫凝ったり技術的に素晴らしかったりする。

    人物画の次は景色や静物画だが絵の具をふんだんに使ったタブローがほとんどだ。

    色面構成や淡いカラーフィールドな絵画は遠目からもインパクトのある人物画に埋もれてしまう。

    この中からコンセプチャルアートから突如、わき起こったニューペインティングのような新たな潮流を作り出すブーム、イズム、価値観が生まれるのだろうか?

    ニューペインティングのときはリアルタイムでその変遷を体験した。もしかしたらすでにその新しいブームは世界のどこかで生まれているのではないだろうか?

    一度、美術界がその流れに方向転回したら、その後は早いと思う。

    大きな企画展が主要な大都市でいくつも開かれジャーナリズムは喧伝しハレな世界を演出するだろう。

    80年代、概念芸術、キネチックアート、抽象表現主義の延長などで画廊には難解すぎて客離れした白々しい空間だけが広がっていた。アーティストのためのアートとまで言われ現代美術は一般のクライアントは見向きもしなくなっていた。

    そのときイタリアからはトランスアバンギャルドが。東西ドイツからはノイエビルダーが。NYからはニューペイティングが颯爽と登場し今までの無味乾燥でオブジェ的、物質的に隔絶された作品群が豪華絢爛、虹が酒樽で発酵したように色を帯び、今までまったくといっていいほど見られなかった人物たちが画面の中で躍動し始めたのだ。

    今でもジュリアンシュナーベルの割れた皿が張りつくされ絵の具を描き殴ったようなベルリンの壁のような巨大なタブローを目にしたとき、自分の中で整理されない混沌とした自己嫌悪に戸惑った。

    それまでのハードエッジと題されたような人手を得ない工業生産品のような作品群とかけ離れすぎていルのだ。大きな絵を前にして、なぜ?しか疑問符がわいてこない自分がいる。今までのアート界とそこに繋がる一遍の糸くずのような些末な共通項も見つけられない。

    でもその困惑も解決するのにさほど時間は要さなかった。

    それまで難解すぎて美的な感傷がなさすぎた冷たい作品群が雪山のロッジに燃えさかる暖炉のように冷え切った体をほぐし、暖かく迎えいれたのだ。

    一気に世界はアートブームになり日本でもヘタウマと呼ばれ日本でも80年代に入ると画家やイラストレーターが俄然、脚光を浴びるようになる。

    湯村輝彦、日比野克彦、安西水丸、河村要助、田中紀之、大竹伸朗などなど。

    あれからすでに30年近く経とうとしている。

    その間、具象画の人気は続き、日本のアニメブームを巻き込んで巨大化しキャラ化し形骸化している。

    フィリップ・ターフェなどの幾何学的コンポジションブームやレイチェル・ホワイトリード、ダミアン・ハースト、ハーマン・ニーチェなどのストイックでシンボリックな作風の作家も人気を博している。

    しかし巷では色鮮やかな具象的人物像、いちばんストレートでわかりやすく直接的なテーマは、不景気の裏返し、つまり商業的リスクをとらない結果なのか、8割近い比率である。

    アートは作家の超個人的な欲望の蒸留されたエッセンスがあるキッカケで裏返って世界を包み込んでしまう。そのエッセンスの皮膜は透明であればあるほど薄ければ薄いほど気づかないうちに強力なパワーで世界を包み込んでしまう。

    アートは根が深い。時代の大きな鼓動、流れを読み取ってそれを無意識のうちにメッセージに託すことのできる才能がなくてはならないと思う。

    個人的感想だが、メッセージ性の強いものが残っていく気がした。

    というよりこれだけ技術的にもモチーフ的にも差のない作品群。この生き詰まっているコンテンポラリーアート業界で目立つには生き残るにはやっぱり人と同じことをやっていてはダメだ、とつくづく思うのだ。

    具体創始者メンバーの一人、島本昭三氏が言っていたが
    現代美術の伝統とは今までにない、今までとはまったく違った考え方、見せ方、アプローチの仕方を提示していくことが伝統だ、と、伝統を壊すことの繰り返しが現代美術の伝統だ、と言っていた。

    まさに言い得て妙だ。


    香辛料の山
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